August 5日Sunday: 黄檗宗の歴史について

カテゴリ: General
投稿者: satoshi
 黄檗宗は臨済宗、曹洞宗と共に禅宗の一つで、徳川四代将軍家綱のときに、中国(明)から渡来した隠元禅師によって開かれた宗派である。隠元禅師の伝えた禅宗は臨済宗の系統に属し、中国では臨済正宗と称していたが、日本では臨済宗黄檗派と呼ばれ、明治の初めに黄檗宗という名称になっている。なお、いんげん豆は隠元禅師が帯来したことから、いんげん豆と呼ばれるようになったものである。
 
 隠元禅師の渡来した頃、江戸幕府は鎖国政策をとっており、外国との接触は長崎だけを通じて行われていたが、当時長崎には多くの中国人が居留していた。

 これらの中国人のために、隠元禅師が渡来する三十年前の寛永元年(一六二四)に、中国僧真円によって興福寺が創建され、その後相次いで福済寺、崇福寺が建立されて、華僑の寺として栄えていた。このうち崇福寺は現在赤寺とも呼ばれており、多くの観光客が訪れ、夏に行われる普度勝会(施餓鬼)はよく知られている。

 この中国寺院には多くの中国僧が渡来してきていたが、中国僧や居留中国人たちは本国から名僧を招きたいと思い、当時中国で活躍し、日本までその名声がとどいていた隠元禅師を招聘することになった。隠元禅師が日本に渡来したのは承応三年(一六五四)七月のことで、隠元禅師が六十三歳のときであった。

 当時の日本仏教界は、新寺建立の禁止や檀家制度によって形式化し沈滞していたが、隠元禅師の来朝によって大いに刺激をうけたのである。当時隠元禅師の渡来を聞いて、臨済宗を初めとする多くの禅僧が長崎に馳せ参じた。これによって臨済宗の多くの優れた人材が輩出する契機ともなり、またのちに黄檗僧になった人もたくさんあった。特に臨済宗妙心寺の住持であった龍渓は隠元禅師に師事し、竺印らと共に隠元禅師を妙心寺に招聘しようとしたが、反対にあって断念している。龍渓はのちに黄檗僧となり草創期の黄檗宗にとっては、なくてはならない人となっている。また不生禅で知られる盤珪などのように隠元禅師の前に渡来した道者(隠元の甥弟子)に参禅した人たちもあった。

 隠元禅師は渡来当初、数年後には本国に帰るつもりでいたが、慰留されて、日本に止まることを決意し、幕府から京都の宇治に土地を賜って、新寺を建立することになった。

 隠元禅師はこの寺の名称を中国と同じ黄檗山万福寺とし、同じような規模、伽藍の配置をすることにした。そして寛文元年(一六六一)五月より工事を始め、その年の八月に普山した。隠元禅師は三年後に住持の地位を中国僧木庵にゆずり、山内の松陰堂に退陰したが、万福寺造営はその後も着々と進められ、約一八年後に主要な建物全部が完成した。

 三門、天王殿、大雄宝殿(本堂)、法堂が一直線に並び、その他の諸堂が左右対称に建てられ、整然とした伽藍配置は見事なものである。その整然たる様子は一直線にのびた黄檗独特の敷石と、後年了翁禅師の寄附によってできた廻廊とによって一層引き立っている。万福寺は中国明末の建築様式を伝えて、純中国式に作られており、そのため俳人菊舎は「山門を出れば日本ぞ茶つみ唄」という名句を残している。

 これらの諸堂には数十体の仏像が安置されているが、これは明から招いた彫刻家范道生によって作られたもので、弥勒像、韋駄天像、十八羅漢像が特色あるものとして知られている。

 隠元禅師によって開創された万福寺は第二代木庵(中国僧)に引き継がれたが、その後も第十三代までと、第十五代、第十八代、第二十代、第二十一代は中国僧が住持となっている。(現在は第六十代)これらの中国僧は隠元禅師に続いて続々と渡来した人たちである。

 このようにして黄檗宗の基盤が確立したが、これは龍渓の努力に負うところが大であった。そして隠元禅師と後水尾天皇との関係もまた龍渓を通じて一層賢密になっている。法皇は龍渓を通じて隠元禅師に問法され、数々の品物を下賜されている。

 当時沈滞していた日本の禅界に清新な気風をもたらした隠元禅師の家風は、明末の禅風をそのまま伝えたものであった。鎌倉期に伝来した従前の禅とは、伝道の形式においても、儀式の点においても異なっており、当時の日本禅界には新鮮な感じを与えたようである。そして黄檗山に参禅した僧侶たちによって黄檗風が広まり、臨済宗や曹洞宗寺院では黄檗風の読経や禅堂の規則を取り入れるところもあったということである。

 当時、中国では禅浄密融合の仏教がさかんで、黄檗派の宗風も当然、その影響を受けていた。禅宗といっても、同時に浄土的な要素や密教的な要素が含まれていた。このことは黄檗宗の使用する経典に端的にあらわれている。

 黄檗宗では日常使用する『禅林課誦』には阿弥陀仏や念仏縁起、西方讃、西方願文等が含まれており、念経の際には南無阿弥陀仏を唱えながら行道する。また密教的な色彩として、『禅林課誦』には多くの陀羅尼が含まれており、特に施餓鬼は密教的色彩の強いものになっている。また参禅の際にも念仏を多く取り入れて、特に黄檗山第四代の独湛は念仏に熱心であったといわれている。これらの点から黄檗禅は念仏禅といわれ、現在に至るまでこの傾向が受け継がれているそうである。

 黄檗禅は西方浄土的でもあり、また密教的色彩をも有していた。日本の禅僧たちのなかには、これに新鮮さを感じとった人もあり、また逆に嫌悪感を抱く人もあったようである。いずれにしても、当時の日本の禅界に強い印象を与えたのは事実である。

 隠元禅師の渡来によって日本の仏教界は大いに刺激を受けたが、宗教的な面以外に文化的な面でも大きな影響を与えている。それは、書道、絵画、彫刻、建築等多方面にわたっている。特に書道は黄檗流の書として知られ、隠元、木庵、即非は“隠木即”と称せられて高く評価されている。絵画では黄檗僧逸然が長崎漢画の祖と称され、彫刻の面でも当時旧弊に堕していた彫刻界に、純中国式の仏像彫刻によって新風を吹き込み、篆刻の技術も伝えている。また明様式をそのまま移した黄檗山の建物は、現代に至るまで建築学上も貴重な存在となっている。

 このように黄檗派は文化的な面でも多大な足跡を残しているが、社会事業の面でもまた、優れた人材を打ち出している。それは、一切経を出版した鉄眼、日本で最初の公開図書館を開いた了翁、干拓事業を行った鉄牛等で、いずれも隠元禅師の渡来を聞いて長崎に馳せ参じ、黄檗僧になった人たちである。

 鎖国時代にあって、特色ある禅風と文化をもたらした黄檗派は黄檗山万福寺の創建によって、その教線を飛躍的に拡大した。万福寺創建後約百年後には全国に約千ヵ寺の黄檗寺院があったといわれている。しかし、明治時代になってから、その数がだんだんと減少し、現在は約五百ヵ寺となっている。しかし、その伝統は変わることなく受け継がれ、隠元の家風は全国の黄檗寺院に生き続けている。そして黄檗山万福寺はいまなお四万数千坪の境内地を擁し、主要建物は創建以来一度も火災に遭うことなく整然と立ち並んでいる。

 また長崎以来の伝統で華僑の出入りも多く、中国から来る友好使節団も必ずといってよいほど万福寺を訪れている。



 黄檗宗の宗風について。隠元は臨済宗楊岐派に属する僧で、当時明で行われていた宗風をそのまま日本に持ち込んできたものと思われる。したがって、一二〇〇年代に栄西が宋から帰国して、その当時の中国の宗風をもたらして発展して行った日本の臨済宗とは趣を異にするものであった。

 日本臨済宗の祖となった栄西は黄龍派の系統に属する僧であり、隠元は楊岐派に属する僧である。黄龍と楊岐はともに石霜(慈明)楚円の弟子であり、この系統は、南獄懐譲・馬祖道一・百丈懐海・黄檗希運・臨済義玄・石霜楚円と受け継がれてきた系統である。黄龍と楊岐は兄弟弟子であり、並び称されるたが、のちには楊岐派が禅宗のほとんどを占めるようになっていったようである。

 このように、栄西も隠元も同じ系統に属するが、日本にその宗風をもたらした年代に約三百五十年の違いがあり、同じ臨済宗であるが、いろいろな面で違いを生じていたのである。たとえば、お経の読み方にも違いがあり、大悲呪の場合、臨済宗が「ナムカラタンノ・・・・・・」であるのに対して、黄檗宗は「ナンムハラタノ・・・・・・」となり、般若心経も、臨済宗が「ハンニャハラミタ・・・・・・」に対して、黄檗宗は「ポゼポロミト・・・・・・」というように違いがあり、また黄檗宗は読経のときに木魚を使うなど違っていたのである。(お経の読み方については現在でも違っているが、木魚については、のちに臨済宗にも取り入れられて、現在は臨済宗だけでなく、曹洞宗をはじめ多くの宗派で使用するようになっている。)

 初期黄檗派で活躍した僧たちについて。承応三年(一六五四)に、隠元が来朝し、寛文元年(一六六一)に黄檗派が形成されて、それにともなって、黄檗派の僧も増えていったが、『黄檗宗鑑録』によると、隠元渡来五十年後の元禄十六年(一七〇三)までに、登録された僧は、中国僧を含めて約七百六十人となっている。僧侶の増加に伴って、全国に黄檗派の寺院も次第に増えていったものと思われる。それらの寺院を中心に、黄檗派は教線を拡大していった。黄檗派の成立は、臨済宗や曹洞宗に多大な影響を与えたばかりではなく、社会的・文化的な面でも多大な影響を与えている。

 こうした、初期黄檗において、いろいろな面において活躍した僧たちがいた。これらの僧たちの活躍によって、黄檗派は教線を拡大していったのである。その中で顕著な働きをした僧としては、龍渓、鉄眼、鉄牛、了翁、慧極等があげられるが、この他にも多くの黄檗僧の活躍によって支えられていたのである。特に、龍渓の黄檗興隆、鉄眼の大蔵経開板、鉄牛の椿沼干拓は黄檗の三大事業と呼ばれている。黄檗派は中国から渡来した僧によって成立したが、それを支える日本僧がいてはじめて可能であったといえる。



《参考文献》

黄檗宗の歴史・人物・文化  木村得玄

講座 禅  第四巻 禅の歴史―日本―

(2006年7月)
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投稿者: satoshi
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