入江太一による本 - (メディア計画研究室 課題「BOOK」 提出企画書)

図であるテキストに対して、変化する地
奈良美智
J・L・ゴダール「映画史」
(→映像でBOOK製作のシナリオを作る?)

嘴(くちばし)のある本
鳥 / 羽毛 / つばさ / 林 / 樹木 / 木の葉
(肝心の「くちばし」がよくわからない・・・)
木にとまっている。
林の中。
いっぱいの鳥。


(2000年6月)

「読む」ということ - (メディア計画研究室 課題「BOOK」 提出レポート)

1.奇妙な感覚

 私は、このレポートに関して調べものをし、足を使って移動をするうちに、いくつかの奇妙な感覚を経験した。本の置いてある(らしい)ところへ遊びに行くような気分で青山・表参道周辺の洋書店やアートスポットを巡っていた私は、街全体がまるで遊園地か何かであるように感じていた。これのどこが奇妙だったのかというと、特に目的の本があるわけではなく、街の中にある本から本へ、書棚から書棚へと、その狭間を漂っているような心地は、本を読んでいるときの文字の中を泳いでいるような感覚を呼び起こしたのである。
 また、本を読むという行為に関する書物を求めて図書館へ行った時には、自らが一種のトートロジーを体現してしまっているかのように感じた。つまり、本を「読む」という行為について考える手がかりを求めて、本に記されていることを読んだのであるが、そのときの私はというと読書という行為がいかなるものか満足な説明がなくとも読書しつづけていたのだ。
 かなりの自覚を伴って、本について、あるいは読むということについて考えながら本を読むということ、そしていつも目的の書架の横には図書館について記された本(図書館学)が並んでいることは、私の思考と行動が一致とも不一致ともつかない奇妙な堂々巡りのなかにあるように感じさせた。 果たしてこれらの感覚は、単に本が我々にとって極めて身近な存在であるということだけから生まれてきたものなのだろうか?



2.読むことの歴史

 アルベルト・マングェルの「読書の歴史」を読むと、西洋において読書は社会/共同体的な読書から個人的、独創的な読書へという大きな流れを持っていることを窺い知ることができる。書物を思索の支柱にし、賢者の言葉のように書物の言葉を信じるという読書のありかたから、書物から引き出した内容と記憶の中のテクストとを結びつけて読者自身の新たなテキストを作り出すような読書へのゆるやかな変化は、朗読から黙読へという読書の方法そのものの移行とも密接に関係している。またこのことは、15世紀後半の活版印刷技術の登場と関連して、少数集中型の読書から拡散型の読書へという変化の側面も持っている。
 今日の我々の読書は、決して古くから当然とされてきたものではなく、比較的新しい読書の方法なのであり、そして今も変化の中にあるのだと言える。これは近年の電子出版や電子本への関心が逆に従来的な書物への関心を高めている状況からも明らかだ。我々の読書の方法や本との付き合い方は、文字の読み書きがそうであるように、教育によって培われたものである。
 写本・音読時代の読書は、黙読によるテキスト同士、あるいは注釈や索引とのあいだの分析的な関係のまさに目に見えてわかる増加、活版印刷技術による本の絶対数の飛躍的な増加などの結果、多くの書物(多くの読書)の関連を読み進め、また関連を読者自身が生み出していく創造的な読書へと変容する。この「新しい」読書こそ、今日の我々の読書に通じるものである。この読書の最も大きな特徴は、終わりがないというところにある。いや、たしかに伝統的な読書にも終わりはなかっただろう。しかし、今日の読者はどれだけ大量の本を読んだところで、過去の読書家のようには満足できないだろう。我々が読む書物は、信じるべき賢者の言葉でもなければ、知の巨人がつくる大きな建築物でもなくなってきている。いまや読書とは、読みつづけるということなのだといえるだろう。
 同書には、筆者がタルムード研究者の次のような言葉を引用している箇所がある。「たとえ膨大なページ数を熱心な読者が読み進めたところで、自分はまだ、まさに第一ページに至ってはいないのだと言うことを決して忘れてはならない。」この考えによれば、読者は本の「第一ページ」さえ読むことができないまま読みつづけなければならないということになる。



3.ひきつける本

 青山・表参道周辺を歩いていたその日、私は韓国人アーティストのカン・アイランの「本の重み 本のあかり」が催されている洋書店NADiFFへ寄った。そこには様々な本の中にまぎれて、カン・アイランの作った青白く発光する本のオブジェが点在していた。青い光は、私たちの精神的なものや思慮のイメージを喚起するかのようで、その「本」のかたちをしたオブジェは私たちを「本」の内側へとひきつけ、同時に外側への広がりを感じさせるように見えた。
 しかし、かと言って世界全体があのオブジェに封じ込められているとは思わなかったし、世界のある場所があのオブジェに占有されているとも思えなかった。むしろほかならぬ私自身が、あのオブジェを見て外部へと広がる世界のイメージを生み出したと言えるのではないか。「本」のオブジェの青白い光のうちに、文字の読み書きを覚えてから(あるいはそれよりも前から)今日まで続けられ、どこにいようといつまでも続く終わりのない読書、関連の中にこそ意味を持つ書物を見つめていたとは言えまいか。
 室内全体を明るくするのではなく、ただあの本自体をほのかに浮かび上がらせるためだけの光を発していたあの「本」は、「すべての本」を象徴していたように思われる。
 書店で私たちの目に止まる本、私たちが布団の上で読んでいる本の背後には、無数の本の影がある。一生の間に読むことのできるのはこれらの無数の本のうちのほんのわずかでしかないが、たとえ数千、数百の書物の読書だとしても、それは無数にある本の関連を読んでいることになろう。図書館や書店で私が経験した奇妙な感覚は、私が今まさに終わりのない読書の最中にあるということの証である。




<参考文献>

 「読書の歴史〜あるいは読者の歴史〜」 アルベルト・マングェル 原田範行(訳) 柏書房 1999
 「書物から読書へ」 ロジェ・シャルチエ 1992
 「本という不思議」 長田弘 みすず書房 1999

飛ぶ本の発見、あるいは新種の鳥類の発見 - (メディア計画研究室 課題「BOOK」 制作企画書)

風に舞う木の葉や一枚の紙片よりも、鳥たちは空を自由に飛び回る。もしも飛び交う鳥たちの軌跡が消えてしまわずに残り続けるものならば、大地はすべてその痕跡に覆われてしまっているのかも知れない。

鳥たちと並列して考えてみた時、書物は人との関わりや他の書物との関わりを、その息づかいとして我々の前に明らかにするだろう。私は鳥類と書物の関係を端的に、飛ぶ本あるいは新種の鳥類の組写真を制作することで表現しようと思う。

合成処理、ミニチュア撮影などによって完成された飛ぶ本あるいは新種の鳥類のイメージは、空想の産物でありフィクションにすぎないが、あたかも記録写真であるかのように虚実の判別がつかないあやうさを持ったものにしたい。そのとき、複数枚ある写真は、飛ぶ本あるいは新種の鳥類の存在を示す間接証拠としても機能するはずだ。


(2000年9月)

M.マクルーハンの「文化マトリックス」について - (講義「メディア論」への提出レポート)

ライト・コンストラクションに見られるマトリックスにおいて、ガラスは物質性を伴う素材としてではなく、光を透過させ建築の内と外との区別を希薄にするようないわば非物質として用いられている。だが内と外との厳格な関係を決定するものの存在が不確かになったとしても、建築から構造そのものが失われることはない。
マクルーハンの理論によれば、情報文化において有機的に統一された相互作用の関係を可能にしたのは、電気の即時的なスピードである。機械技術によって画一的で均質的な単位に細分化されたパターンとは線条的な論理でしかなく、電気の時代にはじめて、我々の知覚体系と比べてみてもきわめて自然な、全体的な相互依存の構造の観念が定着しようとしているのである。
有機的に統一された情報文化とは単に情報の送り手と受け手との双方向的な作用を指すものではない。メディアの背後には人間がいて、技術を用いる人間こそが重要なのだとする考えは、機械技術の時代のものと何ら変わらない。むしろ、メディアの内容は別のメディアであるという同時的な相互依存性によってわれわれの知覚・経験が統一されていると考えなくてはならないだろう。このときはじめて、あの「メディアはメッセージである」という皮肉めいたステイトメントがメディアと人間の関係全体を見事に言い当てるのである。
ここで具体的なメディアの例として、電話の場合を考えてみよう。電話というメディアの内容をわれわれの会話、あるいは声であると考えれば、しかし音声自体は、ラジオはもちろんテレビや映画、レコードなど様々なメディアの内容なのである。電話の内容は言葉であると考えてみれば、事情はいっそう複雑になる。話し言葉は書き言葉の内容で、書き言葉は印刷された言葉の内容であるといえる。つまりここでは言語の体系およびその成り立ちの問題が入れ子の構造に現れているのだが、一方で話し言葉を非言語的なプロトコルとして捉え直してみても人間の思考過程に関する入れ子の構造が立ち現れる。このように電話というメディアの複雑な織物は、電話回線のごとくわれわれの周囲の環境に広がりを求めるわけだが、それは電気の即時的なスピードがもたらした相互依存性の結果だと言える。
特定のメディアにおいて固有の内容というものは考えられない。冒頭で採りあげた建築というメディアなどはまさに「機能する空き箱」である。建築の物理的な構造は電気の時代にCADによる設計の技術やサイバースペースというメタ空間を獲得し、文化的マトリックスの物質性/非物質性を具現化しているのかも知れない。

(2000年9月)

W.ベンヤミン『複製技術時代の芸術』要旨 - (講義「メディア論」への提出レポート)

ポール・ヴァレリーの引用に始まり、序論とあとがきを含め全15章で構成される本著でベンヤミンは、複製技術の時代において失われていく「アウラ」を定義し、大衆社会と複製技術時代の芸術、とりわけ映画との関わりについての考察をすすめる。
アウラ、つまりオリジナルの芸術作品のもつ「いま」「ここに」しかないという真正性、一回性は、大量生産を可能とする複製技術によって一時性、反復性に取って代わられた。同時に、かつての芸術作品の儀式めいた礼拝的価値はアウラの消滅にともなう展示的価値の優位の前に影をひそめることになった。その契機としてベンヤミンは、歴史のプロセスの間接証拠とでも言うべきアジェの写真を挙げている。
そして写真よりも更に進歩的な、映画という真に複製技術の影響力を備えたメディアの登場はまた、それまでにないほど強く大衆との関わりを持った芸術の登場も意味していた。映画の観客は、映画をうやまいたてまつって見るようなことはしない。むしろ役者が臨んだ光学テストの審査官としてスクリーンに投影される映像を見つめるのである。
大衆と同じく撮影者も、審査官の立場をとる。画家の場合と違って撮影技師は光学テストの装置によって外界・被写体に対し、暴力的な近さをもって接するが、それは観客においては定着することなく連想ゲーム的に画面の移り変わるショック作用であると言えるだろう。


(2000年9月)

作家性と複数性について - (講義「作品研究」後期への提出レポート)

作品制作において、作家性というものは、作家本人の周囲を取り巻いている複数性に対立するものなのであろうか。あるいは完全な個人作業でない限り、作家は「作家性か、複数性か」という二者択一を迫られたり、両者の均衡状態を最適に保ち続けなくてはならないのだろうか。

このような問題が集団作業に関わる個人(狭義の「作家」に限定しなくてもよいだろう)にとって重要なのは当然だが、個人作業において無視されて良いものでもあるまい。なぜなら、ひろく物づくりにおいて、複数性とは単に複数の人間が作品制作に携わるということのみを指しているのではないと考えられるからだ。あるいはこのように言い換えることも可能だろう。複製技術が発達する遥か以前ならまだしも、今日のような高度なメディア情勢が、「複数であること」と関わりを持たない純粋な作家の居場所など果たして許してくれるだろうか?いまやそのような作品制作は、いわゆる「自分さがし」のためのモラトリアムな時間のなかにしか存在しえないのではないか。

ここで、作品のメディアが何であっても、また制作に携わる人間の多少にかかわらず、作品制作は常にその過程に複数性を含んでいるということを指摘しておきたい。

不特定多数の人間に対して提示されるための表現に作家性があるかどうかは場合により異なるにしても、少なくとも表現は作家以外の人間、つまり他者が存在してはじめて表現と「呼ばれる」はずである。さらに、表現という行為は先天的に複数であるということ、つまり時空を超越した「ただ一つの」表現というものを考えてみたとしてもそれは「ある一つの」表現でしかないということが言える以上、ひとつの作品は「作品の総体」とでも言うべき複数性を前提にして存在していると考えられる。

その制作過程において作家は、彼以外の人間の存在や今作られつつある作品(行為されつつある表現)以外の作品(表現)があるという可能性に向かってのみ作品を作ることができる。また、作品が完成するまでのプロセスは、実際には選択されなかった無数のプロセスのなかから生まれたものである。ここまで考えてみると、制作に際し組織された集団や帰属社会、あるいはそれらを形成する個人が作家個人にいわれのない妥協を強要することがあるとすれば、それはコミュニケーション(ないしは商業性)の問題以外にはありえないということは明確である。元来作家性とは、作家と作品の関係性を「作家は作品制作/表現行為に対して唯我的に存在している」という構図で捉えたにすぎないはずだ。その作家性が集団や社会といった複数性を前に不自由になるのは、作家が、作るということが持つ複数性や集団作業における個人相互のコミュニケーション(これこそがまさに複数性の問題そのものだと言えよう)を軽んじているときだろう。


(2000年12月)

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