死せる男ジョニー・デップと美しき異邦人カテリーナ・ゴルベワ - (講義「作品研究」前期への提出レポート)
- Posted by: taichistereo • 31 July, 2007
(“表層としてのジャングル”)
1.死せる男
今ちょうど公開中の映画「ナインスゲート」や、「ラスベガスをやっつけろ」など、ジョニー・デップは近年多くの映画に立て続けに主演している。彼は、「たくさんいる」ハリウッドスターの中でも最も注目に値する俳優の一人で、今まで自分の出るべきわずかな映画をほぼ正確に選んできたひとだと言える。またそれは良い映画の賢明な制作者の判断でもあろう。シネフィルならずとも、出世作「シザーハンズ」での大きな鋏の手を持つジョニー・デップや「デッドマン」で目を閉じて静かに横たわるジョニー・デップの姿を鮮明に思い出せるだろう。ここではまず、彼が主演した二つの映画について考えることから始めようと思う。
「シザーハンズ」でジョニー・デップが演じるのは、山から街へ下りてきた心優しき人造人間エドワードである。エドワードは、黒い鋼を身にまとい、髪は爆発し、両手は大きな鋏という風貌で、街の人々のような社会的な常識をまるで持ち合わせていない。この映画では、そんな彼を住まわせてくれるキム(この役を演じているウィノナ・ライダーとジョニー・デップが恋人同士だったことは有名である)の一家を間において、エドワードと街の人たちとのコミュニケーション/ディスコミュニケーションが描かれている。
エドワードにとっての街とは、それまでの住みなれた父なる博士の館から、突然の博士の死によって放り出されることになった未知の世界である。これはちょうど、ロビンソン・クルーソーが船の難破で無人島に一人投げ出されたこととよく似ているように思われる。ロビンソン・クルーソーを取り囲むジャングルが、「シザーハンズ」においてそこに住む人々を含めた街全体であるとするならば、無人島に一人(のちにフライデーという黒人があらわれるのだが)で生き延びると言う状況は、街の人々が共有している常識的な共同体のイメージと相容れることができないエドワードの状況に対応していると考えられる。
95年の「デッドマン」においても、ジョニー・デップは見知らぬ世界へとやってきた人間(外から来た人間)を演じている。職を求めて故郷から遠く離れた土地へとやって来たウィリアム・ブレイクことジョニー・デップは、ひょんなことから賞金稼ぎに追われる身となり、村から離れひとり放浪するインディアン「ノーボディ」に導かれるままに野山をさまよいつづける。傷を負った男は、ノーボディと同じ血を持つものたちの村から海へと返され、死の時を待つ。
この作品の場合、男が降りた駅からどこまでも広がる山林がまさに表象としてのジャングルとして扱われているのだが、そのロードムービー的な性格は、さらに観念的なジャングル=未知の世界へと私たちをいざなう。
タイトルが示す通り、この映画には死のイメージが色濃くにじんでいる。ノーボディによって「聖なる世界」と表現される死の世界は、ジャングル=未知の世界=死の世界という関連を成り立たせるのと同時に、生の世界と死の世界との連続したつながりをも暗示している。すでに多くの人によって語られたことであるが、この男は「あらかじめ死んでいる」者としてさまよいつづけていたのだと考えられる。この男がさまよい歩いている地点は、ゆるやかな/一瞬の変化の狭間の地点であり、すべての事物が静止しているような地点なのである。海と空に囲まれて目を閉じていくジョニー・デップの姿は、あたかも私たちをとりまく世界全体が表層としてのジャングルの性格を帯びていることを象徴しているかのようだ。
2.異邦人
ここでもう一人、魅力的な女優カテリーナ・ゴルベワの存在を挙げたいと思う。彼女の出演した映画のうち、「パリ、18区、夜」と「ポーラX」と言う二本の映画はともに表象としてのジャングルのイメージが巧みに映画の中に織り込まれている例である。
クレール・ドゥニ監督の「パリ、18区、夜」でゴルベワは、リトアニアから経済的な理由などのため移ってきた主人公の女性を好演している。
この映画が何よりもまず「街」を第一義的に扱っていることは、タイトルからも容易に想像できる。この映画で描かれる街は、「タクシードライバー」が主人公トラヴィスを始めとする人物たちのドライな感じや、街が発散する湿った感じにあふれていた映画だったのとは対照的に、濃密ではない、涼しげな空気で満たされている。その空虚とも言える街の風景が連続する中で、ゴルベワの登場するシークエンスは私に特別な安心感を覚えさせた。物語の主軸は、ゴルベワ演じるところの主人公とは直接関係のない老女連続殺人事件にあるのだが、それでも主人公が主人公たり得ているのは、ゴルベワの役どころが観客と同じく街の外の世界のものだからだろう。つまり、観客はパリ18区には住んでいない外の者の目でその街を見ているため、同じく外のものとしての目を持つ異邦人ゴルベワに自らの居場所を求めたのであろう。
昨年公開された「ポーラX」でゴルベワは、主人公ピエールの姉であり、また性愛を超えた魂の伴侶でもあるイザベルの役を演じている。彼女はまたユーゴスラビアからの難民であり、腹違いの弟ピエールには存在を知られていなかったがピエールの夢のなかで始めて出会う、という複雑な設定の役である。
映画の内容について多くを語るつもりはないが、この映画においても異邦人としてのゴルベワは主人公ピエールという観客の視座を規定する重要な役割を果たしている。
現実の世界でイザベラと出会ったピエールは、それまでのノルマンディでの生活やフィアンセを捨ててイザベラや彼女と同じ村から来た娘二人とともにパリで暮らすことにするのだが、観客にとってのその「引越し」の臨場感は、内戦中のユーゴというまったく別の世界から来たイザベラの視点が存在することによって見事に強調されている。
この映画における「表象としてのジャングル」を正確に指し示すことは難しいが、空間の移動や先に待つ運命のまったく見えないような展開に際した未知の感覚は、この映画が「表象としてのジャングル」を内に含んでいる証であるとだけは言えるだろう。
<参考作品>
「クルーソー」
88年・米 監督:キャレブ・デシャネル
「シザーハンズ」
90年・米 製作・監督・原案:ティム・バートン
「デッドマン」
95年・米 監督:ジム・ジャームッシュ
「パリ、18区、夜」
94年・仏 監督:クレール・ドゥニ
「ポーラX」
99年・仏 監督・脚本:レオス・カラックス
「タクシードライバー」
76年・米 監督:マーティン・スコセッシ
(2000年)
1.死せる男
今ちょうど公開中の映画「ナインスゲート」や、「ラスベガスをやっつけろ」など、ジョニー・デップは近年多くの映画に立て続けに主演している。彼は、「たくさんいる」ハリウッドスターの中でも最も注目に値する俳優の一人で、今まで自分の出るべきわずかな映画をほぼ正確に選んできたひとだと言える。またそれは良い映画の賢明な制作者の判断でもあろう。シネフィルならずとも、出世作「シザーハンズ」での大きな鋏の手を持つジョニー・デップや「デッドマン」で目を閉じて静かに横たわるジョニー・デップの姿を鮮明に思い出せるだろう。ここではまず、彼が主演した二つの映画について考えることから始めようと思う。
「シザーハンズ」でジョニー・デップが演じるのは、山から街へ下りてきた心優しき人造人間エドワードである。エドワードは、黒い鋼を身にまとい、髪は爆発し、両手は大きな鋏という風貌で、街の人々のような社会的な常識をまるで持ち合わせていない。この映画では、そんな彼を住まわせてくれるキム(この役を演じているウィノナ・ライダーとジョニー・デップが恋人同士だったことは有名である)の一家を間において、エドワードと街の人たちとのコミュニケーション/ディスコミュニケーションが描かれている。
エドワードにとっての街とは、それまでの住みなれた父なる博士の館から、突然の博士の死によって放り出されることになった未知の世界である。これはちょうど、ロビンソン・クルーソーが船の難破で無人島に一人投げ出されたこととよく似ているように思われる。ロビンソン・クルーソーを取り囲むジャングルが、「シザーハンズ」においてそこに住む人々を含めた街全体であるとするならば、無人島に一人(のちにフライデーという黒人があらわれるのだが)で生き延びると言う状況は、街の人々が共有している常識的な共同体のイメージと相容れることができないエドワードの状況に対応していると考えられる。
95年の「デッドマン」においても、ジョニー・デップは見知らぬ世界へとやってきた人間(外から来た人間)を演じている。職を求めて故郷から遠く離れた土地へとやって来たウィリアム・ブレイクことジョニー・デップは、ひょんなことから賞金稼ぎに追われる身となり、村から離れひとり放浪するインディアン「ノーボディ」に導かれるままに野山をさまよいつづける。傷を負った男は、ノーボディと同じ血を持つものたちの村から海へと返され、死の時を待つ。
この作品の場合、男が降りた駅からどこまでも広がる山林がまさに表象としてのジャングルとして扱われているのだが、そのロードムービー的な性格は、さらに観念的なジャングル=未知の世界へと私たちをいざなう。
タイトルが示す通り、この映画には死のイメージが色濃くにじんでいる。ノーボディによって「聖なる世界」と表現される死の世界は、ジャングル=未知の世界=死の世界という関連を成り立たせるのと同時に、生の世界と死の世界との連続したつながりをも暗示している。すでに多くの人によって語られたことであるが、この男は「あらかじめ死んでいる」者としてさまよいつづけていたのだと考えられる。この男がさまよい歩いている地点は、ゆるやかな/一瞬の変化の狭間の地点であり、すべての事物が静止しているような地点なのである。海と空に囲まれて目を閉じていくジョニー・デップの姿は、あたかも私たちをとりまく世界全体が表層としてのジャングルの性格を帯びていることを象徴しているかのようだ。
2.異邦人
ここでもう一人、魅力的な女優カテリーナ・ゴルベワの存在を挙げたいと思う。彼女の出演した映画のうち、「パリ、18区、夜」と「ポーラX」と言う二本の映画はともに表象としてのジャングルのイメージが巧みに映画の中に織り込まれている例である。
クレール・ドゥニ監督の「パリ、18区、夜」でゴルベワは、リトアニアから経済的な理由などのため移ってきた主人公の女性を好演している。
この映画が何よりもまず「街」を第一義的に扱っていることは、タイトルからも容易に想像できる。この映画で描かれる街は、「タクシードライバー」が主人公トラヴィスを始めとする人物たちのドライな感じや、街が発散する湿った感じにあふれていた映画だったのとは対照的に、濃密ではない、涼しげな空気で満たされている。その空虚とも言える街の風景が連続する中で、ゴルベワの登場するシークエンスは私に特別な安心感を覚えさせた。物語の主軸は、ゴルベワ演じるところの主人公とは直接関係のない老女連続殺人事件にあるのだが、それでも主人公が主人公たり得ているのは、ゴルベワの役どころが観客と同じく街の外の世界のものだからだろう。つまり、観客はパリ18区には住んでいない外の者の目でその街を見ているため、同じく外のものとしての目を持つ異邦人ゴルベワに自らの居場所を求めたのであろう。
昨年公開された「ポーラX」でゴルベワは、主人公ピエールの姉であり、また性愛を超えた魂の伴侶でもあるイザベルの役を演じている。彼女はまたユーゴスラビアからの難民であり、腹違いの弟ピエールには存在を知られていなかったがピエールの夢のなかで始めて出会う、という複雑な設定の役である。
映画の内容について多くを語るつもりはないが、この映画においても異邦人としてのゴルベワは主人公ピエールという観客の視座を規定する重要な役割を果たしている。
現実の世界でイザベラと出会ったピエールは、それまでのノルマンディでの生活やフィアンセを捨ててイザベラや彼女と同じ村から来た娘二人とともにパリで暮らすことにするのだが、観客にとってのその「引越し」の臨場感は、内戦中のユーゴというまったく別の世界から来たイザベラの視点が存在することによって見事に強調されている。
この映画における「表象としてのジャングル」を正確に指し示すことは難しいが、空間の移動や先に待つ運命のまったく見えないような展開に際した未知の感覚は、この映画が「表象としてのジャングル」を内に含んでいる証であるとだけは言えるだろう。
<参考作品>
「クルーソー」
88年・米 監督:キャレブ・デシャネル
「シザーハンズ」
90年・米 製作・監督・原案:ティム・バートン
「デッドマン」
95年・米 監督:ジム・ジャームッシュ
「パリ、18区、夜」
94年・仏 監督:クレール・ドゥニ
「ポーラX」
99年・仏 監督・脚本:レオス・カラックス
「タクシードライバー」
76年・米 監督:マーティン・スコセッシ
(2000年)
uefmwVsVIRHOUF • 09 August, 2011 • 02:28:13