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    <title>かつて大学生だったころのレポート</title>
    <link>http://taichistereo.net/report/</link>
    <description>taichistereoこと入江太一が学生時代に書いていたレポートを公開。</description>
    <language>ja</language>
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    <copyright>&#169;</copyright>
    <category>Weblog</category>
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      <title>かつて大学生だったころのレポート</title>
      <link>http://taichistereo.net/report/</link>
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    <item>
 <title>入江太一による本 - （メディア計画研究室 課題「BOOK」 提出企画書）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=21</link>
<description><![CDATA[		図であるテキストに対して、変化する地<br />
			奈良美智<br />
			Ｊ・Ｌ・ゴダール「映画史」<br />
（→映像でBOOK製作のシナリオを作る？）<br />
<br />
嘴（くちばし）のある本<br />
鳥　/　羽毛　/　つばさ　/　林　/　樹木　/　木の葉<br />
				（肝心の「くちばし」がよくわからない・・・）<br />
			木にとまっている。<br />
			林の中。<br />
			いっぱいの鳥。<br />
<br />
<br />
（2000年6月）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=21</comments>
 <pubDate>Wed, 1 Aug 2007 01:52:59 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>「読む」ということ - （メディア計画研究室 課題「BOOK」 提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=20</link>
<description><![CDATA[１．奇妙な感覚<br />
<br />
　私は、このレポートに関して調べものをし、足を使って移動をするうちに、いくつかの奇妙な感覚を経験した。本の置いてある（らしい）ところへ遊びに行くような気分で青山・表参道周辺の洋書店やアートスポットを巡っていた私は、街全体がまるで遊園地か何かであるように感じていた。これのどこが奇妙だったのかというと、特に目的の本があるわけではなく、街の中にある本から本へ、書棚から書棚へと、その狭間を漂っているような心地は、本を読んでいるときの文字の中を泳いでいるような感覚を呼び起こしたのである。<br />
　また、本を読むという行為に関する書物を求めて図書館へ行った時には、自らが一種のトートロジーを体現してしまっているかのように感じた。つまり、本を「読む」という行為について考える手がかりを求めて、本に記されていることを読んだのであるが、そのときの私はというと読書という行為がいかなるものか満足な説明がなくとも読書しつづけていたのだ。<br />
　かなりの自覚を伴って、本について、あるいは読むということについて考えながら本を読むということ、そしていつも目的の書架の横には図書館について記された本（図書館学）が並んでいることは、私の思考と行動が一致とも不一致ともつかない奇妙な堂々巡りのなかにあるように感じさせた。　果たしてこれらの感覚は、単に本が我々にとって極めて身近な存在であるということだけから生まれてきたものなのだろうか？<br />
<br />
<br />
<br />
２.読むことの歴史<br />
<br />
　アルベルト・マングェルの「読書の歴史」を読むと、西洋において読書は社会／共同体的な読書から個人的、独創的な読書へという大きな流れを持っていることを窺い知ることができる。書物を思索の支柱にし、賢者の言葉のように書物の言葉を信じるという読書のありかたから、書物から引き出した内容と記憶の中のテクストとを結びつけて読者自身の新たなテキストを作り出すような読書へのゆるやかな変化は、朗読から黙読へという読書の方法そのものの移行とも密接に関係している。またこのことは、１５世紀後半の活版印刷技術の登場と関連して、少数集中型の読書から拡散型の読書へという変化の側面も持っている。<br />
　今日の我々の読書は、決して古くから当然とされてきたものではなく、比較的新しい読書の方法なのであり、そして今も変化の中にあるのだと言える。これは近年の電子出版や電子本への関心が逆に従来的な書物への関心を高めている状況からも明らかだ。我々の読書の方法や本との付き合い方は、文字の読み書きがそうであるように、教育によって培われたものである。<br />
　写本・音読時代の読書は、黙読によるテキスト同士、あるいは注釈や索引とのあいだの分析的な関係のまさに目に見えてわかる増加、活版印刷技術による本の絶対数の飛躍的な増加などの結果、多くの書物（多くの読書）の関連を読み進め、また関連を読者自身が生み出していく創造的な読書へと変容する。この「新しい」読書こそ、今日の我々の読書に通じるものである。この読書の最も大きな特徴は、終わりがないというところにある。いや、たしかに伝統的な読書にも終わりはなかっただろう。しかし、今日の読者はどれだけ大量の本を読んだところで、過去の読書家のようには満足できないだろう。我々が読む書物は、信じるべき賢者の言葉でもなければ、知の巨人がつくる大きな建築物でもなくなってきている。いまや読書とは、読みつづけるということなのだといえるだろう。<br />
　同書には、筆者がタルムード研究者の次のような言葉を引用している箇所がある。「たとえ膨大なページ数を熱心な読者が読み進めたところで、自分はまだ、まさに第一ページに至ってはいないのだと言うことを決して忘れてはならない。」この考えによれば、読者は本の「第一ページ」さえ読むことができないまま読みつづけなければならないということになる。<br />
<br />
<br />
<br />
３.ひきつける本<br />
<br />
　青山・表参道周辺を歩いていたその日、私は韓国人アーティストのカン・アイランの「本の重み 本のあかり」が催されている洋書店ＮＡＤｉＦＦへ寄った。そこには様々な本の中にまぎれて、カン・アイランの作った青白く発光する本のオブジェが点在していた。青い光は、私たちの精神的なものや思慮のイメージを喚起するかのようで、その「本」のかたちをしたオブジェは私たちを「本」の内側へとひきつけ、同時に外側への広がりを感じさせるように見えた。<br />
　しかし、かと言って世界全体があのオブジェに封じ込められているとは思わなかったし、世界のある場所があのオブジェに占有されているとも思えなかった。むしろほかならぬ私自身が、あのオブジェを見て外部へと広がる世界のイメージを生み出したと言えるのではないか。「本」のオブジェの青白い光のうちに、文字の読み書きを覚えてから（あるいはそれよりも前から）今日まで続けられ、どこにいようといつまでも続く終わりのない読書、関連の中にこそ意味を持つ書物を見つめていたとは言えまいか。<br />
　室内全体を明るくするのではなく、ただあの本自体をほのかに浮かび上がらせるためだけの光を発していたあの「本」は、「すべての本」を象徴していたように思われる。<br />
　書店で私たちの目に止まる本、私たちが布団の上で読んでいる本の背後には、無数の本の影がある。一生の間に読むことのできるのはこれらの無数の本のうちのほんのわずかでしかないが、たとえ数千、数百の書物の読書だとしても、それは無数にある本の関連を読んでいることになろう。図書館や書店で私が経験した奇妙な感覚は、私が今まさに終わりのない読書の最中にあるということの証である。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜参考文献＞<br />
<br />
　「読書の歴史〜あるいは読者の歴史〜」　アルベルト・マングェル　原田範行(訳)　柏書房　1999<br />
　「書物から読書へ」　ロジェ・シャルチエ　1992<br />
　「本という不思議」　長田弘　みすず書房　1999<br />
]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=20</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:21:30 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>飛ぶ本の発見、あるいは新種の鳥類の発見 - （メディア計画研究室 課題「BOOK」 制作企画書）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=19</link>
<description><![CDATA[風に舞う木の葉や一枚の紙片よりも、鳥たちは空を自由に飛び回る。もしも飛び交う鳥たちの軌跡が消えてしまわずに残り続けるものならば、大地はすべてその痕跡に覆われてしまっているのかも知れない。<br />
<br />
鳥たちと並列して考えてみた時、書物は人との関わりや他の書物との関わりを、その息づかいとして我々の前に明らかにするだろう。私は鳥類と書物の関係を端的に、飛ぶ本あるいは新種の鳥類の組写真を制作することで表現しようと思う。<br />
<br />
合成処理、ミニチュア撮影などによって完成された飛ぶ本あるいは新種の鳥類のイメージは、空想の産物でありフィクションにすぎないが、あたかも記録写真であるかのように虚実の判別がつかないあやうさを持ったものにしたい。そのとき、複数枚ある写真は、飛ぶ本あるいは新種の鳥類の存在を示す間接証拠としても機能するはずだ。<br />
<br />
<br />
（2000年９月）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=19</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:18:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>M.マクルーハンの「文化マトリックス」について - （講義「メディア論」への提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=18</link>
<description><![CDATA[ライト・コンストラクションに見られるマトリックスにおいて、ガラスは物質性を伴う素材としてではなく、光を透過させ建築の内と外との区別を希薄にするようないわば非物質として用いられている。だが内と外との厳格な関係を決定するものの存在が不確かになったとしても、建築から構造そのものが失われることはない。<br />
マクルーハンの理論によれば、情報文化において有機的に統一された相互作用の関係を可能にしたのは、電気の即時的なスピードである。機械技術によって画一的で均質的な単位に細分化されたパターンとは線条的な論理でしかなく、電気の時代にはじめて、我々の知覚体系と比べてみてもきわめて自然な、全体的な相互依存の構造の観念が定着しようとしているのである。<br />
有機的に統一された情報文化とは単に情報の送り手と受け手との双方向的な作用を指すものではない。メディアの背後には人間がいて、技術を用いる人間こそが重要なのだとする考えは、機械技術の時代のものと何ら変わらない。むしろ、メディアの内容は別のメディアであるという同時的な相互依存性によってわれわれの知覚・経験が統一されていると考えなくてはならないだろう。このときはじめて、あの「メディアはメッセージである」という皮肉めいたステイトメントがメディアと人間の関係全体を見事に言い当てるのである。<br />
ここで具体的なメディアの例として、電話の場合を考えてみよう。電話というメディアの内容をわれわれの会話、あるいは声であると考えれば、しかし音声自体は、ラジオはもちろんテレビや映画、レコードなど様々なメディアの内容なのである。電話の内容は言葉であると考えてみれば、事情はいっそう複雑になる。話し言葉は書き言葉の内容で、書き言葉は印刷された言葉の内容であるといえる。つまりここでは言語の体系およびその成り立ちの問題が入れ子の構造に現れているのだが、一方で話し言葉を非言語的なプロトコルとして捉え直してみても人間の思考過程に関する入れ子の構造が立ち現れる。このように電話というメディアの複雑な織物は、電話回線のごとくわれわれの周囲の環境に広がりを求めるわけだが、それは電気の即時的なスピードがもたらした相互依存性の結果だと言える。<br />
特定のメディアにおいて固有の内容というものは考えられない。冒頭で採りあげた建築というメディアなどはまさに「機能する空き箱」である。建築の物理的な構造は電気の時代にＣＡＤによる設計の技術やサイバースペースというメタ空間を獲得し、文化的マトリックスの物質性／非物質性を具現化しているのかも知れない。<br />
<br />
（2000年９月）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=18</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:16:18 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>Ｗ.ベンヤミン『複製技術時代の芸術』要旨 -　（講義「メディア論」への提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=17</link>
<description><![CDATA[ポール・ヴァレリーの引用に始まり、序論とあとがきを含め全１５章で構成される本著でベンヤミンは、複製技術の時代において失われていく「アウラ」を定義し、大衆社会と複製技術時代の芸術、とりわけ映画との関わりについての考察をすすめる。<br />
アウラ、つまりオリジナルの芸術作品のもつ「いま」「ここに」しかないという真正性、一回性は、大量生産を可能とする複製技術によって一時性、反復性に取って代わられた。同時に、かつての芸術作品の儀式めいた礼拝的価値はアウラの消滅にともなう展示的価値の優位の前に影をひそめることになった。その契機としてベンヤミンは、歴史のプロセスの間接証拠とでも言うべきアジェの写真を挙げている。<br />
そして写真よりも更に進歩的な、映画という真に複製技術の影響力を備えたメディアの登場はまた、それまでにないほど強く大衆との関わりを持った芸術の登場も意味していた。映画の観客は、映画をうやまいたてまつって見るようなことはしない。むしろ役者が臨んだ光学テストの審査官としてスクリーンに投影される映像を見つめるのである。<br />
大衆と同じく撮影者も、審査官の立場をとる。画家の場合と違って撮影技師は光学テストの装置によって外界・被写体に対し、暴力的な近さをもって接するが、それは観客においては定着することなく連想ゲーム的に画面の移り変わるショック作用であると言えるだろう。<br />
<br />
<br />
（2000年９月）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=17</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:15:11 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>作家性と複数性について - （講義「作品研究」後期への提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=16</link>
<description><![CDATA[作品制作において、作家性というものは、作家本人の周囲を取り巻いている複数性に対立するものなのであろうか。あるいは完全な個人作業でない限り、作家は「作家性か、複数性か」という二者択一を迫られたり、両者の均衡状態を最適に保ち続けなくてはならないのだろうか。<br />
<br />
このような問題が集団作業に関わる個人（狭義の「作家」に限定しなくてもよいだろう）にとって重要なのは当然だが、個人作業において無視されて良いものでもあるまい。なぜなら、ひろく物づくりにおいて、複数性とは単に複数の人間が作品制作に携わるということのみを指しているのではないと考えられるからだ。あるいはこのように言い換えることも可能だろう。複製技術が発達する遥か以前ならまだしも、今日のような高度なメディア情勢が、「複数であること」と関わりを持たない純粋な作家の居場所など果たして許してくれるだろうか？いまやそのような作品制作は、いわゆる「自分さがし」のためのモラトリアムな時間のなかにしか存在しえないのではないか。<br />
<br />
ここで、作品のメディアが何であっても、また制作に携わる人間の多少にかかわらず、作品制作は常にその過程に複数性を含んでいるということを指摘しておきたい。<br />
<br />
不特定多数の人間に対して提示されるための表現に作家性があるかどうかは場合により異なるにしても、少なくとも表現は作家以外の人間、つまり他者が存在してはじめて表現と「呼ばれる」はずである。さらに、表現という行為は先天的に複数であるということ、つまり時空を超越した「ただ一つの」表現というものを考えてみたとしてもそれは「ある一つの」表現でしかないということが言える以上、ひとつの作品は「作品の総体」とでも言うべき複数性を前提にして存在していると考えられる。<br />
<br />
その制作過程において作家は、彼以外の人間の存在や今作られつつある作品（行為されつつある表現）以外の作品（表現）があるという可能性に向かってのみ作品を作ることができる。また、作品が完成するまでのプロセスは、実際には選択されなかった無数のプロセスのなかから生まれたものである。ここまで考えてみると、制作に際し組織された集団や帰属社会、あるいはそれらを形成する個人が作家個人にいわれのない妥協を強要することがあるとすれば、それはコミュニケーション（ないしは商業性）の問題以外にはありえないということは明確である。元来作家性とは、作家と作品の関係性を「作家は作品制作／表現行為に対して唯我的に存在している」という構図で捉えたにすぎないはずだ。その作家性が集団や社会といった複数性を前に不自由になるのは、作家が、作るということが持つ複数性や集団作業における個人相互のコミュニケーション（これこそがまさに複数性の問題そのものだと言えよう）を軽んじているときだろう。<br />
<br />
<br />
（2000年12月）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=16</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:12:54 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>作品制作において予算を抑えるためにはどのような工夫が考えられるか？ - （講義「作品研究」後期への提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=15</link>
<description><![CDATA[作品制作において予算を抑えるためには、例えば黒澤明のように、微に入り細に入り徹底的に思うとおりに制作していてはいけない。彼は、例えば大多数の観客にはわからないような戦国時代の鎧甲冑のデティールを可能な限り再現するといったことが理想的な全体を支持し、彼の作りたい映画に導いてくれると信じていたわけである。<br />
だが、黒澤の場合のように映画内世界と現実世界とで一致した「意味」の支持体を作り上げることは、相応の予算が無ければ出来ない。制作費を抑えるためにはむしろ、そのような作家の思い入れとしての「意味」に立脚した制作は捨て去って、ただ完成した作品が生み出す「効果」についてのみ思索しながら制作すべきである。そのとき必要なのは計画性、最終的な作品へと向かう制作過程を的確に把握できるだけの注意深いまなざしである。<br />
<br />
<br />
（2000年１月）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=15</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:11:32 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>『夜の河』における色彩設計について - （講義「作品研究」後期への提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=14</link>
<description><![CDATA[　阪大助教授・竹村に病気の妻がいることを知った時、竹村を愛するキワは彼と結ばれたいと願う一方で、彼の妻の死を願うようなことはあってはならないという自戒の念に感情を抑えられ思い悩んでいる。つまりキワにとっては、余命いくばくもない妻を持つ男性からの求婚とは単に願望を実現するための決断を迫られるにとどまらず、彼女のモラルの位相を問われる種類の出来事であったのである。<br />
このように旧来的なモラルと近代的奔放さにその身を引き裂かれているのはヒロインだけではない。京都という土地もまた、古くからの伝統的な息遣いと押し寄せる近代化の時流とに引き裂かれているのである。現在においても、新たな建物の建設計画が明らかになるたびに住民の間に議論が引き起こされている。1997年に京都駅が大々的に改築されたおり、土地以外の人々からも様々な意見が出たことは記憶に新しい。<br />
<br />
　『夜の河』における京都の街は、全体的に淡く褐色がかったような色彩を基調に描かれているのだが、時折画面に持ち込まれる着物生地や花などの鮮やかな原色の存在していたことを忘れてはならない。なぜなら、その目の眩むような原色が、人物たちの振る舞いや感情を丹念に紡ぎ出す物語のなかにあって一種軽快とも言えるようなリズムを生んでいるからだ。<br />
この作品が吉村公三郎の初めてのカラー映画であるが、彼は自伝の中で「実をいうと、私は生まれつき、色彩感覚がにぶい。とくにある種の緑と赤のみわけがつきにくい。『紅緑色弱』とでもいうのだろうか。」（1）と明かすとおり、色盲の人なのである。そこで彼は、色彩の効果についての客観的な研究事例に色彩表現の組成を求めることにした。結果、この作品の色彩設計は明快で筋の通ったものになったと言える。それはまた、当時の大映が採用していたイーストマンコダック社のフィルムの高い彩度という特性によるところも少なくないだろう。<br />
<br />
ここでこの作品の色彩表現から監督の色盲というファクターを差し引いて考えてみると、客観的な色彩感覚にしたがうという方法は色彩設計上のひとつの方法論だったと考えられる。主観的な感覚による色彩設計を捨て、むしろ表現においてより開かれた映像的記号要素として色彩というイメージをとらえるという方法論である。事実、吉村のカラー作品における色彩設計の背景には、色盲であるという事実以外にも、色彩を「単に黒白に色のついたものではなく、モンタージュの要素として映画表現のための第三の次元で捕らえたい」（2）という彼の考えがある。<br />
ほぼ全編において見られるような鮮やかな色のせめぎ合いは作品全体に緊張感をもたらしていたし、そのことで人物の感情の流れが強調されてたち現れてきていて、ヒロインのうちにひめられた感情の大きさ、染め物の鮮やかさや実験されたハエの赤さは、京都の褐色の町並みに何か影を落としているようだ。映画表現のための要素として色彩を振り返ると、愛し合う男女が近代化あるいはモラルの問題に引き裂かれていく姿が、モンタージュという映像の葛藤のプロセスを経ることで象徴的に描かれていたと言えるのではないだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
夜の河（56年・大映京都）<br />
製作：永田雅一　監督：吉村公三郎　原作：沢野久雄　脚本：田中澄江<br />
撮影：宮川一夫　美術：内藤昭　音楽：池野成　<br />
出演：山本富士子／上原謙／小野道子／中川和子／阿井美千子／川崎敬三／<br />
　　　東野英治郎<br />
<br />
<br />
参考文献<br />
吉村公三郎「伝記叢書303　映画のいのち　伝記・吉村公三郎」大空社<br />
<br />
※　文中の（1）、（2）はともに同書からの引用。<br />
<br />
<br />
（2000年１月）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=14</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:10:06 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>死せる男ジョニー・デップと美しき異邦人カテリーナ・ゴルベワ - （講義「作品研究」前期への提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=13</link>
<description><![CDATA[（“表層としてのジャングル”）<br />
<br />
<br />
１．死せる男<br />
<br />
　今ちょうど公開中の映画「ナインスゲート」や、「ラスベガスをやっつけろ」など、ジョニー・デップは近年多くの映画に立て続けに主演している。彼は、「たくさんいる」ハリウッドスターの中でも最も注目に値する俳優の一人で、今まで自分の出るべきわずかな映画をほぼ正確に選んできたひとだと言える。またそれは良い映画の賢明な制作者の判断でもあろう。シネフィルならずとも、出世作「シザーハンズ」での大きな鋏の手を持つジョニー・デップや「デッドマン」で目を閉じて静かに横たわるジョニー・デップの姿を鮮明に思い出せるだろう。ここではまず、彼が主演した二つの映画について考えることから始めようと思う。<br />
<br />
　「シザーハンズ」でジョニー・デップが演じるのは、山から街へ下りてきた心優しき人造人間エドワードである。エドワードは、黒い鋼を身にまとい、髪は爆発し、両手は大きな鋏という風貌で、街の人々のような社会的な常識をまるで持ち合わせていない。この映画では、そんな彼を住まわせてくれるキム（この役を演じているウィノナ・ライダーとジョニー・デップが恋人同士だったことは有名である）の一家を間において、エドワードと街の人たちとのコミュニケーション／ディスコミュニケーションが描かれている。<br />
　エドワードにとっての街とは、それまでの住みなれた父なる博士の館から、突然の博士の死によって放り出されることになった未知の世界である。これはちょうど、ロビンソン・クルーソーが船の難破で無人島に一人投げ出されたこととよく似ているように思われる。ロビンソン・クルーソーを取り囲むジャングルが、「シザーハンズ」においてそこに住む人々を含めた街全体であるとするならば、無人島に一人（のちにフライデーという黒人があらわれるのだが）で生き延びると言う状況は、街の人々が共有している常識的な共同体のイメージと相容れることができないエドワードの状況に対応していると考えられる。<br />
<br />
　９５年の「デッドマン」においても、ジョニー・デップは見知らぬ世界へとやってきた人間（外から来た人間）を演じている。職を求めて故郷から遠く離れた土地へとやって来たウィリアム・ブレイクことジョニー・デップは、ひょんなことから賞金稼ぎに追われる身となり、村から離れひとり放浪するインディアン「ノーボディ」に導かれるままに野山をさまよいつづける。傷を負った男は、ノーボディと同じ血を持つものたちの村から海へと返され、死の時を待つ。<br />
　この作品の場合、男が降りた駅からどこまでも広がる山林がまさに表象としてのジャングルとして扱われているのだが、そのロードムービー的な性格は、さらに観念的なジャングル＝未知の世界へと私たちをいざなう。<br />
　タイトルが示す通り、この映画には死のイメージが色濃くにじんでいる。ノーボディによって「聖なる世界」と表現される死の世界は、ジャングル＝未知の世界＝死の世界という関連を成り立たせるのと同時に、生の世界と死の世界との連続したつながりをも暗示している。すでに多くの人によって語られたことであるが、この男は「あらかじめ死んでいる」者としてさまよいつづけていたのだと考えられる。この男がさまよい歩いている地点は、ゆるやかな/一瞬の変化の狭間の地点であり、すべての事物が静止しているような地点なのである。海と空に囲まれて目を閉じていくジョニー・デップの姿は、あたかも私たちをとりまく世界全体が表層としてのジャングルの性格を帯びていることを象徴しているかのようだ。<br />
<br />
<br />
<br />
２．異邦人<br />
<br />
　ここでもう一人、魅力的な女優カテリーナ・ゴルベワの存在を挙げたいと思う。彼女の出演した映画のうち、「パリ、１８区、夜」と「ポーラＸ」と言う二本の映画はともに表象としてのジャングルのイメージが巧みに映画の中に織り込まれている例である。<br />
<br />
　クレール・ドゥニ監督の「パリ、１８区、夜」でゴルベワは、リトアニアから経済的な理由などのため移ってきた主人公の女性を好演している。<br />
　この映画が何よりもまず「街」を第一義的に扱っていることは、タイトルからも容易に想像できる。この映画で描かれる街は、「タクシードライバー」が主人公トラヴィスを始めとする人物たちのドライな感じや、街が発散する湿った感じにあふれていた映画だったのとは対照的に、濃密ではない、涼しげな空気で満たされている。その空虚とも言える街の風景が連続する中で、ゴルベワの登場するシークエンスは私に特別な安心感を覚えさせた。物語の主軸は、ゴルベワ演じるところの主人公とは直接関係のない老女連続殺人事件にあるのだが、それでも主人公が主人公たり得ているのは、ゴルベワの役どころが観客と同じく街の外の世界のものだからだろう。つまり、観客はパリ１８区には住んでいない外の者の目でその街を見ているため、同じく外のものとしての目を持つ異邦人ゴルベワに自らの居場所を求めたのであろう。<br />
<br />
　昨年公開された「ポーラＸ」でゴルベワは、主人公ピエールの姉であり、また性愛を超えた魂の伴侶でもあるイザベルの役を演じている。彼女はまたユーゴスラビアからの難民であり、腹違いの弟ピエールには存在を知られていなかったがピエールの夢のなかで始めて出会う、という複雑な設定の役である。<br />
　映画の内容について多くを語るつもりはないが、この映画においても異邦人としてのゴルベワは主人公ピエールという観客の視座を規定する重要な役割を果たしている。<br />
　現実の世界でイザベラと出会ったピエールは、それまでのノルマンディでの生活やフィアンセを捨ててイザベラや彼女と同じ村から来た娘二人とともにパリで暮らすことにするのだが、観客にとってのその「引越し」の臨場感は、内戦中のユーゴというまったく別の世界から来たイザベラの視点が存在することによって見事に強調されている。<br />
　この映画における「表象としてのジャングル」を正確に指し示すことは難しいが、空間の移動や先に待つ運命のまったく見えないような展開に際した未知の感覚は、この映画が「表象としてのジャングル」を内に含んでいる証であるとだけは言えるだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜参考作品＞<br />
<br />
　「クルーソー」<br />
８８年・米　　監督：キャレブ・デシャネル<br />
　　「シザーハンズ」<br />
９０年・米　　製作・監督・原案：ティム・バートン<br />
　　「デッドマン」<br />
　　　　　９５年・米　　監督：ジム・ジャームッシュ<br />
　　「パリ、１８区、夜」<br />
　　　　　９４年・仏　　監督：クレール・ドゥニ<br />
　　「ポーラＸ」<br />
　　　　　９９年・仏　　監督・脚本：レオス・カラックス<br />
　　「タクシードライバー」<br />
　　　　　７６年・米　　監督：マーティン・スコセッシ<br />
<br />
（2000年）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=13</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:08:21 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>映像において、性的表現はどこまで許されるのか - （講義「作品研究」前期への提出レポート）</title>
 <link>http://taichistereo.net/report/?itemid=11</link>
<description><![CDATA[１．男性による、映像表現への考察（その１）<br />
<br />
「映画によって、言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶんあなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐えつづけることの息苦しさをも知っているに違いない。」<br />
<br />
「映画を巡ってつづられる言葉は、長らく、この灰色の自分を納得し、それを正当化する口実にすぎなかった。」<br />
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　上記の文章は、蓮見重彦氏が編集をされていた映画雑誌「季刊リュミエール」の第一号に掲載された創刊の辞からの抜粋である。これは言うまでもなく、映画の周囲を回り続ける言葉に対する考察だ。<br />
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２．男性による、映像表現への考察（その２）<br />
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　Ａ・ヒッチコック「サイコ」において、浴室でジャネット・リーが殺されるシーンが衝撃をもって迎えられ、天才的映画作家の数ある作品の中でも最も有名なイマージュとなった理由の一つに、映像表現の持つ性的な側面が挙げられると思う。<br />
　アパートの一室でのつかの間の情事に我々は、ジャネット・リーの華奢な身体とそれに似つかわしくない豊満な胸を覗き見する。<br />
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３．男性による、映像表現への考察（その３）<br />
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　ところで、いま私たちはビデオというものを通して映画に触れることができる。しかし、「体験する」ことができる映画を前にして、レンタルビデオの便利さに何の意味があろうか。映画と人間の関係を離れて、ビデオになった映画を小さなモニターで見るとき、私たちが単に体験することを逸してしまっただけでなく「良識ある」形而上的思考によって自分が自分以上の存在であるかのように錯覚してしまっていることは明らかである。私たちが現実において生きている限り、完全に静止した安全な地点を手に入れることなどできるはずがないのだ。「映画」はビデオで見るものではない。ビデオはもっと別の何かであるのにちがいない。<br />
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４．男性による、映像表現への考察（その４）<br />
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「水は上へとび、夜は明るくなければならぬ。人工のいつわりがこの世の真実であらねばならぬ。人の理知は自然の真実のためではなく、偽りの真実の為に、その完全な組み立ての為に、捧げつくされなければならぬ。偽りにまさる真実はこの世にはありえない。なぜなら、偽りのみが、たぶん、退屈ではないから。」<br />
（坂口安吾「恋をしに行く」より）<br />
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５．男性による、映像表現への考察（その５）<br />
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「語りえぬ事柄については沈黙すべきである。」<br />
（ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」）<br />
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　サイレント / 白黒 / 限界 / 沈黙<br />
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　くだらない男は、しゃべりすぎる。<br />
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６．映像において、性的表現はどこまで許されるのか<br />
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　この問いに対する解答はケースバイケースだと思うので、答えられません。<br />
　かといって、ある作品における映像表現を取り上げてみても、私には、有効な言葉が明確に示せるとも思いません。<br />
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　たとえば、解答に際して映像の限界を示すことが必要ならば、それは映像の内側からなされるべきで、本来レポートでは無理なのかもしれません。ケースバイケースとはその意味です。<br />
　また、それは私にそれだけの言葉を操る能力や知識の引出しがないだけのことなのかもしれません。<br />
　道徳・倫理的な問題を離れて「性的表現はどこまで許されるのか」と考えることは、今の私には出来ません。とりあえず、このことを説明するために、関係すると思われるような引用などを連ねることにしました。<br />
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（2000年）]]></description>
 <category>その他</category>
<comments>http://taichistereo.net/report/?itemid=11</comments>
 <pubDate>Tue, 31 Jul 2007 06:05:40 +0900</pubDate>
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