2.4.自動車と定住様式
2.失われつつある生活
2.4.自動車と定住様式
ここまで見てきたように、アメリカから先進諸国をはじめ全世界的に広がったモータリゼーションを代替する新しい交通機関の模索は以前からつづけられており、その傾向は近代から脱した時代において何がしかのビジョンを示そうとしているように思われる。70年代以降の都市計画において新交通システムが大きく扱われるようになった背景には、モータリゼーションによって交通が飛躍的に発達するのと同時に、このパーソナルな移動手段である自動車に対応するようにして公共の交通機関の側も発達・充実する必要があったからだと説明できるだろう。その意味では新交通システムも結局は近代の要求にこたえるものであったと言えるが、果たして乗り物という技術は近代の終焉とともに消えてしまうものなのだろうか?あるいは、乗り物は近代という時代においてのみ垣間見ることのできる交通メディアの一形態でしかないのであろうか?
例えば、世界に先立って市街地での本格的なモノレール運行を開始したドイツは、モータリゼーションから新交通システムへの移行が成功している典型的な国である。一昔前までのドイツの交通といえば、何と言ってもナチス政権下において建設されたアウトバーンの存在がよく知られていた。
しかし一方で、世界で初めて市街地でのモノレール運行が始まったのもこのドイツのヴッパータルにおいてであった。そしていまではLRT先進国として知られ、全世界的なLRT導入推進の先陣を切ったよい見本として注目を集めるようにまでなっている。このような変遷の過程に新時代に向けてのビジョンがあったとすれば、それはどんなものだったのだろうか。私たちの実生活を取り巻いているところの交通事情は、いくつもの側面を併せ持った現象としてたち現れているはずだが、本論のテーマである私たちの生活と乗り物との関係において言えば、現代の変容する交通の位相は、住環境としての「郊外」と20世紀に活躍した乗り物との関係の変化に置き換えて考えることができるだろう。
ユートピアとしての「郊外」は近代が産み出した定住生活の、ひとつの様式である。建築家の隈研吾は、この定住様式の本質が「形本位主義」という安易な即物的思考にあると考えた。いまこの「形本位主義」に根ざした人々はグローバリゼーションという次なるユートピアを模索している。地球規模の市場においてどのように振舞えば地域経済が繁栄していくのか、というグローバル対ローカルの図式も、ユートピア思想に巻き込まれない地点に立脚していなければ全く効力を持たなくなるだろう。

「奥様は魔女」アメリカ産の「マイ・ホーム」のイメージは、例えば映画やテレビのなかに記憶されている。代表的なホームドラマのひとつである『奥さまは魔女』(1964−1972)はこうしたイメージの最たるものとして、人気を博した。奥さまこと主人公・サマンサが魔女であること以外は「ごく普通の」家庭を描いたホームドラマなのである。しかし例えば『シザー・ハンズ』(T・バートン監督、1990)において同じく主人公が闖入する「ごく普通の」コロニアルスタイルの家並みは、もはや私たちの目には奇妙な主人公そのものよりも異様に映るのである。わたしたちが脱近代の時代を迎えるためには、こうした「形本位主義」の影を払拭しなければならない。
ならば乗り物はどうだろうか。自動車や鉄道は郊外へと住環境が拡大するのには欠かせない乗り物だった。とくに自動車は高度経済成長期の「3C」に数え上げられており、「形本位主義」がもっとも欲望した対象のひとつである。自動車と電車それぞれが果たした20世紀社会への貢献の決定的な差違を示すには、次の引用で充分だろう。
定住領域の拡大とは、具体的には都市の拡大と職・住それぞれの領域の膨張と分離に伴う生活圏の郊外化、さらにグローバリゼーションまでを含めた現象であると言えるだろう。これにはモータリゼーション以外にも都市の近代化や経済成長といった社会的要因も当然考えられるが、グーテンベルク技術の生んだ最後の機械である自動車は、経済成長やグローバリゼーションといった高度な近代社会の成立には欠くことの出来ない前提だった。このように考えると、様式としての「郊外」と「自動車」が、20世紀の「形本位主義」的な生活に直接働きかけてきた住環境と乗り物であると言えそうだ。
引用した部分から考えると、自動車がもたらした行動の自由とは定住と非定住を選択する自由ではなく、道路を自由に選択できることであり、あくまでも定住生活における移動の自由であるということだ。「世界が狭くなった」というのはまさにこうした変化を裏返して捉えた表現である。
ここで重要なのは、ここまでの考察がすべて、定住生活を前提としているということだ。たしかに、前章で私がそうしたように、遊牧民や流飄民たちの生活をも定住生活としてひとくくりにして考えることも可能だ。これまで何度か引用してきた川添の論考についても<定住領域と移動空間>が全篇を通してのキーワードとして挙げられよう。しかし、交通メディアの力で(量的にも質的にも)史上かつてないほどの規模で繰り広げられるようになった移動・運搬の現状が、むしろ定住生活の方を遊牧生活に含めてしまうような見方を与えてくれることも確かなのである。
例えば、トレーラーハウスやキャンピングカーといった自動車としての機能と住居としての機能を複合した機械装置は、まさに定住と遊牧を折衷した半放浪的な生活を可能にしてくれるのかもしれない。しかしほとんどの場合キャンピングカーは、アウトドア用品の一つとして、あるいはRV(Recreation Vehicle)などと並ぶファミリー向けの装置として販売されている[注6]。またトレーラーハウスは、オートキャンプ場などに設置・固定されることで、キャンプを楽しむ家族や低所得者たちにねぐらを提供することもある。こうして考えてみると、これらを<家>として捉えようとするにはあまりに富める者や貧しい者たちにとっての、特殊なケースでしかないのかもしれない。乗り物の住居化(住まう乗り物)あるいは住居の乗り物化(移動する住み処)というようなもうひとつの新しい生活様式というのは、まだあまり開拓されていないだけなのかもしれない。たいていの人々にとって、住むことと移動することというのは明確に区分されている。その基準は、「いま私がいるこの場所は私の<家>なのかそうでないのか」という単純なものだ。この区分に従えば移動空間は個人にとっての個室のようなものではあっても家族の集う<家>ではない。トレーラーハウスは<家>としては「すみかえすごろく」から除外されていて、キャンピングカーは言わば別荘か何かのように基本的な社会生活とは区別される遊びの領域の乗り物と考えられているのだ。
「郊外」という定住様式が20世紀における不可避的な、唯一の選択肢だったのだとしたら、私たちはこれから何らかの新しい生活のスタイルというものを何に求めることになるのだろう?あるいは、今、何処に住もうとしているのだろうか。確かに川添の言う通り、トレーラーハウスやキャンピングカーとて定住様式のひとつに過ぎないものなのであるかもしれない(川添『移動空間論』1968、P.7)。しかし、乗り物/交通メディアが本当に住むことと移動すること狭間に広がる溝を埋め、互いを溶解させるようなものであるとすれば、他ならぬ乗り物こそが定住という社会の前提として機能しつづけてきた枠組みについて新しく捉えなおす契機を孕んでいるのではないだろうか。私たちはこうした再考の作業を、「形」に対する近代的な欲望とは決別したうえで慎重に、そして大胆に進めなければならない。「形」を取り払ったあとに残るもの、それは個人の生活における実践である。
2.4.自動車と定住様式
ここまで見てきたように、アメリカから先進諸国をはじめ全世界的に広がったモータリゼーションを代替する新しい交通機関の模索は以前からつづけられており、その傾向は近代から脱した時代において何がしかのビジョンを示そうとしているように思われる。70年代以降の都市計画において新交通システムが大きく扱われるようになった背景には、モータリゼーションによって交通が飛躍的に発達するのと同時に、このパーソナルな移動手段である自動車に対応するようにして公共の交通機関の側も発達・充実する必要があったからだと説明できるだろう。その意味では新交通システムも結局は近代の要求にこたえるものであったと言えるが、果たして乗り物という技術は近代の終焉とともに消えてしまうものなのだろうか?あるいは、乗り物は近代という時代においてのみ垣間見ることのできる交通メディアの一形態でしかないのであろうか?
例えば、世界に先立って市街地での本格的なモノレール運行を開始したドイツは、モータリゼーションから新交通システムへの移行が成功している典型的な国である。一昔前までのドイツの交通といえば、何と言ってもナチス政権下において建設されたアウトバーンの存在がよく知られていた。
しかし一方で、世界で初めて市街地でのモノレール運行が始まったのもこのドイツのヴッパータルにおいてであった。そしていまではLRT先進国として知られ、全世界的なLRT導入推進の先陣を切ったよい見本として注目を集めるようにまでなっている。このような変遷の過程に新時代に向けてのビジョンがあったとすれば、それはどんなものだったのだろうか。私たちの実生活を取り巻いているところの交通事情は、いくつもの側面を併せ持った現象としてたち現れているはずだが、本論のテーマである私たちの生活と乗り物との関係において言えば、現代の変容する交通の位相は、住環境としての「郊外」と20世紀に活躍した乗り物との関係の変化に置き換えて考えることができるだろう。
一言で要約すればそれは「郊外の時代」である。(中略)中世が「教会の時代」であり、十九世紀が「首都の時代(ネーションステートの首都)」であったのと同じ意味において、二十世紀とは「郊外の時代」であり、郊外という空間形式によって、そのすべてが象徴される時代であったからである。(中略)
「郊外」こそがそもそもそのような(筆者注:「形が内容を規定する」ような)「形本位主義」の産物であり帰結だったのである。白く輝く「夢のわが家」という形を手に入れることができれば、それと同時に幸福な生活も手に入れることができるという思考の形式が、郊外住宅を産み、二十世紀を産み、そして支えたのであった。そのひとつの理想の形を手に入れるまでは、禁欲し、まじめに働くべしという形で、「形本位主義」は生活のあり方を規定し、時間のあり方を規定したのである。(隈研吾、1997、『まぼろしの郊外』(宮台真司、1997)文庫版解説より、P.304、P.306)
ユートピアとしての「郊外」は近代が産み出した定住生活の、ひとつの様式である。建築家の隈研吾は、この定住様式の本質が「形本位主義」という安易な即物的思考にあると考えた。いまこの「形本位主義」に根ざした人々はグローバリゼーションという次なるユートピアを模索している。地球規模の市場においてどのように振舞えば地域経済が繁栄していくのか、というグローバル対ローカルの図式も、ユートピア思想に巻き込まれない地点に立脚していなければ全く効力を持たなくなるだろう。

「奥様は魔女」
ならば乗り物はどうだろうか。自動車や鉄道は郊外へと住環境が拡大するのには欠かせない乗り物だった。とくに自動車は高度経済成長期の「3C」に数え上げられており、「形本位主義」がもっとも欲望した対象のひとつである。自動車と電車それぞれが果たした20世紀社会への貢献の決定的な差違を示すには、次の引用で充分だろう。
鉄道は所詮、点と点をつなぐ線の交通である。これに対して、自由に道を選ぶことのできる自動車は、本来、面的なものである定住領域の拡大にもっともふさわしいものだった。いうまでもなく、自動車の特徴の一つは、それがパーソナルな乗り物である、ということで、自家用車という単語にはちゃんと"家"の文字がついているように、それは"家"すなわち定住生活者のための一手段となっているのだ。だから自動車が人間に与えた行動の自由とは、まず第一に、定住領域における行動の自由であり、その自由が、定住領域のおどろくべき拡大を導き出したものにほかならなかったのである。(中略)
自動車―とくに乗用車―という移動空間のもつ特異性は、定住生活の手段であるにもかかわらず、あくまでも行動領域のものであるという点だ。(中略)自動車が、現代文明に与えた衝撃性は、まさにこの二重的な、矛盾した性格の中に存在していた。(川添『移動空間論』1968、P.101〜P.103)
定住領域の拡大とは、具体的には都市の拡大と職・住それぞれの領域の膨張と分離に伴う生活圏の郊外化、さらにグローバリゼーションまでを含めた現象であると言えるだろう。これにはモータリゼーション以外にも都市の近代化や経済成長といった社会的要因も当然考えられるが、グーテンベルク技術の生んだ最後の機械である自動車は、経済成長やグローバリゼーションといった高度な近代社会の成立には欠くことの出来ない前提だった。このように考えると、様式としての「郊外」と「自動車」が、20世紀の「形本位主義」的な生活に直接働きかけてきた住環境と乗り物であると言えそうだ。
引用した部分から考えると、自動車がもたらした行動の自由とは定住と非定住を選択する自由ではなく、道路を自由に選択できることであり、あくまでも定住生活における移動の自由であるということだ。「世界が狭くなった」というのはまさにこうした変化を裏返して捉えた表現である。
ここで重要なのは、ここまでの考察がすべて、定住生活を前提としているということだ。たしかに、前章で私がそうしたように、遊牧民や流飄民たちの生活をも定住生活としてひとくくりにして考えることも可能だ。これまで何度か引用してきた川添の論考についても<定住領域と移動空間>が全篇を通してのキーワードとして挙げられよう。しかし、交通メディアの力で(量的にも質的にも)史上かつてないほどの規模で繰り広げられるようになった移動・運搬の現状が、むしろ定住生活の方を遊牧生活に含めてしまうような見方を与えてくれることも確かなのである。
例えば、トレーラーハウスやキャンピングカーといった自動車としての機能と住居としての機能を複合した機械装置は、まさに定住と遊牧を折衷した半放浪的な生活を可能にしてくれるのかもしれない。しかしほとんどの場合キャンピングカーは、アウトドア用品の一つとして、あるいはRV(Recreation Vehicle)などと並ぶファミリー向けの装置として販売されている[注6]。またトレーラーハウスは、オートキャンプ場などに設置・固定されることで、キャンプを楽しむ家族や低所得者たちにねぐらを提供することもある。こうして考えてみると、これらを<家>として捉えようとするにはあまりに富める者や貧しい者たちにとっての、特殊なケースでしかないのかもしれない。乗り物の住居化(住まう乗り物)あるいは住居の乗り物化(移動する住み処)というようなもうひとつの新しい生活様式というのは、まだあまり開拓されていないだけなのかもしれない。たいていの人々にとって、住むことと移動することというのは明確に区分されている。その基準は、「いま私がいるこの場所は私の<家>なのかそうでないのか」という単純なものだ。この区分に従えば移動空間は個人にとっての個室のようなものではあっても家族の集う<家>ではない。トレーラーハウスは<家>としては「すみかえすごろく」から除外されていて、キャンピングカーは言わば別荘か何かのように基本的な社会生活とは区別される遊びの領域の乗り物と考えられているのだ。

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コメント投稿時のNGワードについてAbout
「移動と定住」 は、taichistereo(入江太一) によって 2001年に執筆された 卒業論文です(学科賞 受賞)。
大学卒業後は ハードディスクの片隅にひっそりと眠っているだけでしたが、2007年に Nucleus CMS を用いて 改めてコンテンツとして蘇生させることにしました。
■ 当時の学籍 ■
東京工芸大学 芸術学部 映像学科
メディア計画研究室
Navigation
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- [ 目次 ]
- 要旨
- 0.前書き
- 1.メディアとしての乗り物
- 1.1.乗り物というメディア
- 1.2.定住領域の拡大とメディアの外爆発
- 1.3.船と飛行機
- 1.4.メディア時代の速度
- 1.5.管理制御技術
- 2.失われつつある生活
- 2.1.アメリカ
- 2.2.郊外の住環境
- 2.3.郊外の乗り物
- 2.4.自動車と定住様式
- 3.テクノロジー
- 3.1.あそび
- 3.2.速度の遊戯
- 3.3.視聴覚メディアとしての乗り物
- 3.4.企てと逸脱
- 4.移動すること
- 4.1.時間と空間の圧縮
- 4.2.非-場所
- 4.3.家
- 4.4.サイバネーション
- 注解
- 参考文献
- Twitterと政治(α) / ぽりったー(politter)
- 日本の政治家のTwitter投稿をまとめて一覧表示
- 社長ったー
- 日本の経営者のTwitterタイムラインを一覧表示
- [らじったー] ソーシャルラジオストリーム
- radiko(ラジコ)を聴きながらTwitterタイムラインを一覧表示
- [目安箱] あなたのツイートが政治を変える!
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- FXスタジアム
- FX(外国為替)で取引しながら、Twitterでリアルタイムに意見共有
- 更新Ping送信先一覧 まとめwiki
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