4.3.家

4.移動すること
4.3.家

一般的な定住民たちは、自らの住みか、つまり住居や地域、国家、民族、時代などといった帰属の対象となりうるあらゆる<家>をたよりにして、そこからの空間的・時間的それに心理的な距離をおしはかりながら移動している。空間と時間の原点として、<家>に生活の中心を定める者(住みかを定める者)にとって、帰属していることは移動することよりも常に上位なのである。

かつて勝ち戦に富を得た者は、「ここも私のものとなった」と言いながら戦利品としての新たな大地に旗を立て、野を越え山を越え、海までも越えてさらに属領を拡大し続けようと努めた。こういった態度は近近代に至るまで基本的に何も変わらなかったことだろう。自分たちの生活をよりよくするためには、出来るだけ自然科学的、政治的な意味で環境をコントロールしなければならなかったから、社会があらゆる不便・不快の元凶たる未開の領域と戦わなければならない時代が続いた。しかし陸の覇者たる定住民たちは、実のところ属領化することでしか大地に帰属できなかったのであって、私たちがより深くこの世界に参加することが出来るようになるのは「脱属領化」(脱領土化)のプロセスが進行する現代をおいてほかにない。

誤謬を恐れずに言えば、未知のフロンティアの向こうに見え隠れしていた夢の生活のほとんどが属領のうちに引き込まれてしまいつつあるのが現代だ。その気になればフロンティアはおそらくいつだって見つけ出せるにしても、いま私たちにとって問題なのは、この社会をうまく機能させるための内なるフロンティアの方である。未知の領域をあらしめるはずの境界というものが意味を失いつつある現代、定住生活という前提そのものもまたひとつの幻影として霞みはじめている。

本来<家>に帰属しないことは、定住社会においては逸脱と見なされる。しかし、今や社会の機能をデザインしているのは、定住と遊牧という両極間を文字通り移動することであるといっても過言ではない。領土は互いに重なり合い、日常的な移動によって侵犯されつづける。乗り物によって国家という大きな<家>相互を隔てていた境界は越境され解消されてしまうし、個人にとっての小さな<家>の方は交通メディア全般によって消費空間の中に溶解してしまうのだ。こうした状況では、ひとつの帰属対象にのみ主体がアイデンティティの基盤をたよりつづけることは出来ないだろう。私たちは、好むと好まざるに関わらず、交通メディアに対して幾ばくかの寛容を保ちつづけなければならない。すべからく帰属感というものが無効化され(それは私やあなたの<家>も例外ではないだろう)、誰のものだか判然としない「ここ」と「よそ」との近接性ばかりがますます身近になりつつある。だがもし、シモーヌ・ド・ボーヴォワールのように「私が耕すであろうのは、つねにわたくしの庭」であると考えることが許されるのであれば(ボーヴォワール『人間について』1955)、私たちはあらゆる種類の<家>からの物理的・心的距離に気兼ねすることなくノマドロジーの実践のなかへと分け入っていくことが出来るのではないだろか。


あそびの構造 と 遊牧・放浪
さしあたってここで問題にしたいのは、定住と遊牧の関係とその間の領域における移動行為の可能性、すなわち社会通念としての<家>への帰属と逸脱としての<家>からの脱出、そしてその積極的な折衷としての<あそび>についてである。ここで「積極的」折衷としたのは、消極的に自由な振る舞いが阻害されたまま移動の実践のなかに放り込まれてしまうことは移動すること本来の自由性と矛盾するからである。

定住(的)と遊牧(的)という対立項については、私たちは浅田彰によって提示された「パラノ(イア)/スキゾ(フレニー)」の関係を参照することが出来る。『逃走論』(1984)においてこの精神医学的なモデルは、単一の価値観における深さを志向する「パラノ」的な生き方と複数的な価値観における軽やかさを志向する「スキゾ」的な生き方とを対比するために提供されている。そして浅田は「≪パラノ人間」から≪スキゾ人間」へ、≪住む文明」から≪逃げる文明」への大転換」を「全面的に肯定せよ」と高らかに謳いあげるのである(浅田、同掲書、1984、P.4)。

パラノ vs スキゾ 〜 <クラインの壷>からさらなる未来へ(「逃走論」)
ここで浅田によってとどめを刺されようとしている<パラノ人間>と「パラノ・ドライブ」とは、専門分化したそれぞれの狭い領域における専門家(スペシャリスト)としての振舞いに邁進してきた近代人とその社会信条である、と言い換えてもよいだろう。こんな言い方をするとまるで私が自分に一切関係のない他人事について語っているように聞こえてしまうかもしれないが、私たちこそは教育その他の暗黙的な社会からの規制によってこうしたパラノ性を許容され、さらに奨励さえされてきた、近代の遺物でもあるわけだ。

ただ、あまり個人の問題に引きつけすぎて「自分はどちらのタイプの人間か」とこのモデルにあてはめてみようとしたところで、それほど意味はないように思われる。彼の指摘には、占いのようにすぐさま役に立つような、気分的で都合のいい人生訓ばかりが含まれているわけではないはずだ。だからここでは、「パラノ/スキゾ」の関係がつきつけてくる問題を現代における個人生活のあり方に対してのものとして、定住と移動の関係に並置して考えてみるべきだろう。

精神医の斎藤環は、浅田の「パラノ/スキゾ」の対比において「スキゾとは分裂病親和者としてイメージされており、パラノは臨床的にはスキゾの一部なので、より正確にはメランコ(リー)親和者を指していると考えられる。そして、メランコの認知はうつ病的な認知、すなわち積分回路に近似することができる」(斎藤『若者のすべて』2001、P.115)とした上でなお、この二項対立に有効性を認めている。

彼は、分裂病親和者には「構造にあらかじめ距離感が組み込まれている」ため臨床的には治療者の側からの参与の必要があり、逆に神経症には距離が必要であるという臨床経験的事実に基づいて、マクルーハンの言葉を借りて「分裂病はクール」で「神経症はホット」なのだとする(斎藤、同掲書、2001、P.103)。こうした斎藤の「パラノ/スキゾ」解釈にはいささかアクロバティックに過ぎる感が残ることも否めないが、「パラノ=住むこと=参与性・低い/スキゾ=逃げること=参与性・高い」という対立構造から「住むこと=家(たとえ人が住まなくても家は家)」さらに「逃げること=乗り物(操縦の必要性)」という単純な対立関係を導き出すことができる点で興味深い。つまり、乗り物というクールなメディアには私たちの参与が求められ、家というホットなメディアに対しては適当な距離を保たなければならないということだ。この場合パラノ/スキゾの両者を最も明確に分けているのが、定住的アイデンティティの帰属先の有無であることは言うまでもない。

また斎藤の考えにしたがえば、「パラノからスキゾへ」の転換は「ホットなメディアの時代からクールなメディアの時代へ」の移行として読み解くことが出来る。すなわち、「住む文明から逃げる文明へ」の転換を「外爆発から内爆発へ」あるいは「専門分化性から包括性へ」という文脈に符合させることも一層確かなものになるのだ。

マクルーハンが「クールな」メディアのなかに見出した社会の変容とは、端的に言えば電気の持つ画一化・規格化の働き、反復可能性の力によって、誰もが「自分たちを中産階級の人間だと思いこ」むようになったということである(マクルーハン『メディア論』1964、P.228)。これまでも取り上げてきたような、郊外の白いコロニアル住宅に住み、家電製品を備え、コーンフレークを食べるのが普通なのだという時代の光景がすぐさま思い浮かぶだろう。このようなイメージがステレオタイプなものであるとは言え、こうしたパラノイア的な共同幻想としての「社会」のイメージが、定住民たちが定住生活という前提そのものについて包括的に捉えみることを阻害してきたことは確かだろう。

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Comments

横田 さん (08/19 07:43:27):
家=家族の絆
そこから何事も始まる
geudUjlZ さん (05/17 19:00:04):
ok i think I get the riddle but just one qunstioe… is person 5 a totally new person who hasn’t been in the previous books? You don’t have to answer if it’ll give away too much.

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About

「移動と定住」 は、taichistereo(入江太一) によって 2001年に執筆された 卒業論文です(学科賞 受賞)。

大学卒業後は ハードディスクの片隅にひっそりと眠っているだけでしたが、2007年に Nucleus CMS を用いて 改めてコンテンツとして蘇生させることにしました。

■ 当時の学籍 ■
東京工芸大学 芸術学部 映像学科 メディア計画研究室

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