4.1.時間と空間の圧縮

4.移動すること
4.1.時間と空間の圧縮

私はここまで、時間と空間の省略・圧縮ということを乗り物の基本的な機能として何度か繰り返してきたが、この考え方を重要なパラダイムとして最初に取り上げたのはおそらくデヴィッド・ハーヴェイではないかと思われる。経済地理学者であるハーヴェイは、グローバリゼーションにおける特徴的な傾向について説明を加えるために時間と空間に注目し、「時間・空間の圧縮」(タイム・スペース・コンプレッション)というキータームを用いている(ハーヴェイ、1989)。

私の場合はと言えば、彼に比べるときわめてささやかな意味でこの言葉に着目している。すなわち、交通メディアは人やもの、そして情報の、移動における機動性と拡散性を拡張する技術であり、乗り物は人が普通に歩いたり走ったりするよりも大きな速度で移動するための技術であるから、時間や空間はこれらによって縮小されるだろうということだ。こういった事実は、実際わたしたちの移動経験にどのような影響を与えているのだろうか。ここではまず「動く歩道」(ムービング・ウォーク)に乗って移動することについて考えてみることを突破口にして、私たちの移動についての本質的な理解を導き出したい。

少し奇異に感じられるかもしれないが、建物などの床面を改造してつくられた設備であるムービング・ウォークも、比較的新しい「乗り物」である。これが本当に乗り物と呼べる代物であるかどうかと言えばやはり一般的な認識からやや遠ざかってしまう問題になりそうであるから、ここでは厳密な定義を求めるような態度とは異なる視座から、交通システムのひとつとして編み出されたこの変則的な移動装置について考えてみたい。

乗り物としてのムービング・ウォーク、と言われたときに感じてしまう一種の強引さのようなものは、同じように人を乗せて運ぶ設備であるエレベーターやエスカレーターについても言えることである。エレベーターについては『移動空間論』(1968)での川添の考察が、私たちと乗り物とのすぐれて興味深い関係を示唆している。

現代都市の象徴といえば、なんといってもまず高速道路と超高層ビルというところで、この両者は切り離して考えられないが、これを移動空間の側から見れば、自動車とエレベーターということになる。(中略)先に私は、高速道路上の自動車は、ただひたすら目的地に進むだけで、目の前を通りすぎる道路サインだけが、その位置を教えると書いた。エレベーターもまた暗闇の中を、目的の階へ向かって、ただひたすらに上昇し、下降するのみで、ただ階数を知らせるサインランプの点滅が、その位置を示すに過ぎない。(中略)人びとは、なるほどそれに目的をもって乗りはするが、しかし、その中での存在は無目的化される。そして、そこで顔を見合す人びとは偶然、乗り合った人びとであり、その人びとが狭い密室にしばしば同居する。建築家の菊竹清訓氏は、この点からエレベーターは、現在の玄関ホールであると考えた。(川添、同掲書、1968、P.134〜140

エレベーターのなかで、それに乗る私たちの存在が無目的化されてしまうのは、乗り物によって省略されてしまったはずの時空間に取り残された私たちが、目的地に着くのをひたすらに待ちつづけなければならないからに他ならない。こうした移動過程の省略はメディアとしての乗り物にはつきものなのだから、このことはすべての乗り物について言えることでもあるはずだ。特に自動車は、高速道路を走るときには目的地まで一定のスピードを保たなければならない。つまり高速道路は速度に対する制限をわずかばかり緩和してくれる一方で、自動車を、レールの上を走る電車のような存在にしてしまうのである。自由に進路を選べる移動手段によってさえこんな具合なのだから、移動空間における私たちは、常にエレベーターのなかと同じく無目的的な実存と化してしまうことになる。

この無目的的な経験として捉えられる移動空間を玄関ホールに例えることが許されるのは、そこが目的地への単なる通過点でしかないからだ。「玄関」ではなくて「玄関ホール」とするのはいかにも建築家である菊竹らしい言葉の選び方だと言いたくなるが、同じ建築では駅や空港などがここで言う玄関にあてはまるだろう。ターミナルで見られるような、ある特定の場所に必然的というよりはむしろ偶然に多くの人々が集まって、そのうち方々へ散っていってしまうという光景は、常識的な意味での合理的判断を除いては彼らが「いま・ここ」に集まっていることの根拠に欠けている。また、偶然性がもたらす集団と言う意味では、公共の交通機関、すなわち自家用以外すべての乗り物の内部空間が玄関ホール的であると言える。

ここで、問題のムービング・ウォークに話を戻してみたい。19世紀後半には誕生していたというムービング・ウォークには、実は定速で稼動するもの以外にも変速式の装置を組み込んだタイプのものがある。1980年代に新交通システム導入の動きが盛んになったちょうどそのころ開発された、トラックス(TRAX)と呼ばれる世界初の自動変速歩道がそれにあたる。以前にも、19世紀末のシカゴ・ベルリン・パリでの万国博覧会において速度の違う複数のベルトを乗り換えるタイプの変速歩道は作られているが、こちらは設置面積が大きくなってしかも利用者にはかえって不便であるという理由から実用化されることはなかった。変速型にしろ定速型にしろムービング・ウォークというものはある程度長い距離をすばやく移動するための歩行補助装置なので、どこの通路にも設置するというものではない。また長い直線を持つ歩行者空間というのはそれこそ農村などを探せばいくらでも見つかるだろうが、公共交通であるムービング・ウォークは歩行者が多いところでないと設置する必要が少ない。

しかもいずれのタイプのものにしろ進行方向と乗降地点は決められているのだから、一端乗り入れると途中で引き返したり降りたりすることが出来ない。よって、商店街など路上に作られる意味もほとんどないと言ってもいいだろう。このような制限事項を差し引いてもなお歩行者がムービング・ウォークを利用するとしたら、大きな駅の地下通路ぐらいしかないだろう。地下鉄の乗り換え通路や都市中心部の地下には、通過する以外何の役にも立たない空間が広がっていることが少なくない。そこで見かけられるのは、足早に駆ける歩行者の姿かもしくは通路をねぐらとするホームレスたちの姿のどちらかである。たしかにこのような空間ではムービング・ウォークが必要とされ、活躍するだろう。普通われわれがそこにいるのは、目的地へ向かうというただそれだけのためであり、出来ればこのような移動の隙間は手っ取り早く省略してしまいたいものだからだ。つまり、ムービング・ウォークは、無目的な歩行者空間における移動を補助・拡張しているのだということになる。見方を変えると、変速・加速型のものは別にして、ムービング・ウォークは人の流れを整理し、その速度を定常化する役割を担ってもいる。

しかしこの装置に、乗り物にしては何か居心地の悪さのようなものがあると感じてしまうのは、私だけではないだろう。エスカレーターならまだしも、ムービング・ウォークの前ではしばしば、乗ろうかどうか躊躇させられることがあるのではないだろうか。どうやらこの得心のいかない装置は、せいぜい、通過していく歩行者に対するほんの気配りとして設置されているようだ。われわれの移動における本当の必要性から言えばこれはほとんど無用の長物というのが実際のところで、駅ビルなどの管理者側が用意した内部装飾(インテリア)であると言ってもいいかもしれない。変速式の装置で加速する歩道ともなれば、サービス過剰といったところだろうか。

そもそも一般にムービング・ウォークによって圧縮される隔たりとはせいぜい普通に歩いていけるくらいの距離で、速度にしても人が走るよりは遅いものである。だから私たちは玄関ホール以上に無目的な経験のなかで移動することにやきもきさせられてしまうのだ。

ムービング・ウォークは、階段の代わりを果たすという必然性に基づくエレベーターやエスカレーターの技術を、平地において応用しているものだ。エレベーターは構造的には前時代の動力機関によって達成されている機械技術で、ケーブルに引っ張られて高低を移動する方法はケーブル・カーとよく似ている。一方でムービング・ウォークは地面そのものをベルトコンベア状に細工してしまおうというのだから、やはりかなりイレギュラーな移動装置である。乗り物は速度や効率を求めることで発達してきたわけだが、この場合、私たち自身が合理的なフォード・システムのコンベアの上に乗せられた部品になることで、移動することそのものの意味を失っているのである。そのせいで私たちは、ひどく不毛に感じられる経験の中に自分の居場所を確立する事が出来ない。

乗り物に内在する近代性をひとまず除外して考えてみても、私たちの移動には常にこの種のアイデンティティに関わる不安が付きまとってくる。乗り物による移動がある特定のサイクルとして日常的に反復されその道筋が通いなれたものになると、移動すること自体がもっていた遊戯性は次第に損なわれていき、皮肉にも移動するという目的的な行為によって生活のなかに無目的な隙間が生じることになる。お決まりの空虚な経験のなかに、充実していたはずの実存は一瞬、埋没してしまうのだ。それはあたかも圧縮・縮小された時間と空間に締め出されてしまったかのように、移動することで私たちの居場所が失われてしまっているのである。

このような事態がもたらす不安が、ちょうど<家>にいることがもたらす安心感と対照を成すものであることは言うまでもない。なぜなら移動とは<家>から遠ざかりつづける運動であるからだ。こういった私の考えに対しては当然、<家>に接近する方向での移動という反証の存在が挙げられるだろう。<家>に対する接近と離脱という相反する移動ベクトルは定住生活において常にひとつのセット、サイクルとなる。つまり帰宅と外出である。どちらの過程においても私たちは<家>にいなくて、<家>からの離脱(外出)という移動が行われなければ<家>への接近(帰宅)という移動は決して生じないわけだから、この場合接近の行為は離脱の行為に付随するものであると言える。このようにして、定住生活における乗り物の移動とは<家>を中心にして時間と空間を圧縮する行為である、と説明できる。ならばここで、その<家>という、私たちのアイデンティティと直結しているものの存在が、実際のところ心理的にどれだけ重要な位置を占めていて、他の場所とどれだけ異なる場所なのかということについて、はっきりと問うてみるべきだ。

[ 前へ ]  |  [ 次へ ]

目次


Comments

pmYuzIeNLrJ さん (05/17 19:44:35):
I hate my life but at least this makes it beraable.

※ コメント投稿時のNGワードについて

Add Comment

コメント投稿時のNGワードについて

About

「移動と定住」 は、taichistereo(入江太一) によって 2001年に執筆された 卒業論文です(学科賞 受賞)。

大学卒業後は ハードディスクの片隅にひっそりと眠っているだけでしたが、2007年に Nucleus CMS を用いて 改めてコンテンツとして蘇生させることにしました。

■ 当時の学籍 ■
東京工芸大学 芸術学部 映像学科 メディア計画研究室

Navigation