3.4.企てと逸脱

3.テクノロジー
3.4.企てと逸脱

カイヨワの示す<遊び>は、アゴン(競争)アレア(偶然)ミミクリ(模倣)イリンクス(眩暈)の四つに分類され、いつでも「そのいずれかの役割が優位を示している」ものとされている(カイヨワ『遊びと人間』1974、P.43)。先のドライビングについて考えれば、カーレースなどの形をとる場合はアゴン(競争)としての性格も強くなるが、純粋にドライブを楽しむというのであればそれは自動車という、身体と知覚とを拡張する技術なしには得られない速度を楽しんでいるのに他ならない。カイヨワの分類にしたがえば、こうした速度の遊戯はイリンクス(眩暈)に当てはめることができるはずだ。果たしてこのようなイリンクスの性格は、自動車や列車だけでなくすべての速度機械=乗り物に共通して備わっている遊戯性なのだろうか?

西村は、カイヨワがイリンクスの遊戯性を認めるトランス的な宗教儀礼については、「狂気や錯乱のあやうさと接する形而上学的な企て」であるとして、無作為的な「遊び」と区別する一方で、ブランコやシーソーなどにおいて遊戯者をとらえる浮遊感とイリンクスの近似に注目する(西村『電脳遊戯の少年少女たち』1999)。

浮遊と同調の仕掛けを、シーソーがはっきり見せてくれる。一枚の板は、まんなかが宙づりにされることで、遊びの動きをとるようになる。両はしに一人ずつ子どもがすわり、一方があがると他方がさがる。だからといって、二人が自分勝手な動きをしているわけではない。このような単純な遊びにも、すでにルールはある。あがりさがりの遊びが一巡するごとに、その地面をつよくけって宙づりの遊隙に身をゆだねることが、ここでのルールである。遊び手は、天秤の両端におかれたおもりとして、遊びを構成する一要素、遊び関係の一項にすぎない。つまり遊び手の存在の意味は、自由意志と企ての主体としての一個の人格ではなく、ただ相手とつりあうおもりとしての役割である。

遊戯者にルールへの同調を促す一方で過度の期待は無意識的にあるいはルールという他律によって制限され、文字通り遊戯者を宙吊りにしてしまうというのが西村がいうところの浮遊の構造である。速度の遊戯においてこの構造は、先に考えてきたような、目的意識の奨励と抑制という互いに矛盾した要求の狭間に<遊び>が位置するという図式に見事に符合するものだと言える。西村のいう浮遊感というものが、速度のもたらすドライブ感と同種のものであることは言うまでもない。ルールあるいはレギュレーションによって、ゲーム/レースの速度という目的に対する意志はある地点で宙吊りにあうことになる。そここそが、速度の遊戯者にとっての自由な振る舞いの余地つまり<あそび>の領域であり、ドライブ感の生じるところなのである。

ここで注目すべきなのは、ブランコやシーソーなどといった移動と言えるような挙動を見せない乗り物にもイリンクスの遊戯=速度の遊戯としての性格が含まれているのではないかということである。それらには移動という実用的な乗り物に期待されて当然の用途が全く欠如している。メリーゴーラウンドやジェットコースター、観覧車といった遊園地で活躍するものも含めて、建物設備としての乗り物は移動することを目的としておらず、乗ることそのものによる快楽・娯楽性だけが際立っている。西村の考えに従えば、こういった「乗り物」にも遊びとしての目的だけでなくルールもきちんとあって、それが遊びの枠組みとなっている。

ここで、遊戯におけるルールと目的について、次のような単純な図を示すことが出来る[図A]。ルールと目的の境界上に位置して、可能な限り自由意志の自然なゆらぎ、行為のブレとしての<あそび>を縮小しようとする態度がスポーツマンシップの本質であることは、先にも説明した通りである。こうしたいきさつを逆の側から眺めてみれば、遊戯者の態度から自由意志が逓減されるかわりに目的意識が強く肥大することで、<あそび>がルールと目的ふたつの領域からともに締め出されようとしているのだと考えることが出来る。遊びにはそれ自体に、ルール・レギュレーションという目的意識の制限と遊ぶという自由意志の奨励というそれぞれに矛盾したメッセージが内在している。スポーツマンシップというのはこれらのメッセージが引き起こすダブルバインド(二重拘束)の構造に立脚している遊戯者の態度なのだ。


あそびの構造-1
図A: あそびの構造-1
あそびの構造-2
図B: あそびの構造-2
しかし行為者の選択的な態度によって、すなわち<あそび>のこころという自由意志によって、遊びのなかに潜在するであろうダブルバインド的な混乱状況は<あそび>の領域に一変させられるのだ。その意味では、スポーツに没頭している人々もまた、自らの自由意志に沿ってダブルバインド的遊戯に真っ向から取り組もうとしているのだと言える。しかし私がここで擁護しようとしている基本的な考え方というのは、<あそび>の領域における私たちの自由意志が、その<あそび>を拡大する可能性があるのではないか、ということである。よってここでまた、自由意志の対立概念としての社会から要請される<あそび>を抑制する働きについて取り上げてみる必要があるだろう。社会との関わりにおける<あそび>の位相とはどのようなものなのであろうか。

西村が「遊べないひとの精神病理」と呼ぶダブルバインド的な混乱状況とはもともと、ベイトソンによって考えられたメタ・レベルでのコミュニケーションに関する精神医学的なモデルである。母親が子どもを受け入れる態度を見せているのにもかかわらず、しかし拒絶されてしまうという例が一般的だ。日常のコミュニケーションにおいて、相手の振る舞いが見せ掛けの<遊び>の行為なのかそれとも真剣に意図された<企て>であるかということを私たちは瞬時に判断して意思の疎通を滞りなく済ませている。この判別が混乱をきたしたとき、私たちは奨励と拒絶という相反する要求によって二重に拘束され、引き裂かれてしまう。これが恒常化してしまうと、彼には解釈可能性としての<あそび>の余地が失われてしまう。まさしくこれこそがルールと欲望でがんじがらめになった近代的な進歩主義が辿るであろうシナリオではないか。

私たちは、遊びの目的(たとえば速度)を追求しようと企てたとき、それは遊びの枠組みによってすみやかに抑制され、宙づりにあい、遊戯の浮遊感(ドライブ感)を経験することになる。私たちが乗り物に乗って何処か目的地まで移動しようと企てるときも、交通ルールという社会的な規律によって、私たちの企ては共有事項の範疇におさまる行為に加工され、はじめて社会に許容される。ここで、この関係について次のような図を得ることができる[図B]。速度の遊戯に、常識とその逸脱という境界線に幅を持たせ、押し広げようとする生活信条の萌芽を見ようとするのは性急だろうか。近代主義的な考えに則った個人生活、さらに言えば定住生活の臨界点たる今日、こうした<あそび>の領域に私たちの新しい生活は花開くのではないだろうか。

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Comments

hurting foot pain さん (10/07 17:21:01):
There is clearly a lot to know about this. I feel you made some nice points in features also.

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About

「移動と定住」 は、taichistereo(入江太一) によって 2001年に執筆された 卒業論文です(学科賞 受賞)。

大学卒業後は ハードディスクの片隅にひっそりと眠っているだけでしたが、2007年に Nucleus CMS を用いて 改めてコンテンツとして蘇生させることにしました。

■ 当時の学籍 ■
東京工芸大学 芸術学部 映像学科 メディア計画研究室

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