3.3.視聴覚メディアとしての乗り物

3.テクノロジー
3.3.視聴覚メディアとしての乗り物

移動している乗り物は、他の何にも似ない<車窓の風景>を持っている。乗用車でドライブするときや列車で旅をするときに私たちが眺めている風景は、刻々と移り変わっていくもので、窓の外には普段の見え方とは異なったパノラマ的な視界が広がっている。それは一枚の風景画のようでもあり、写真集のようでもあり、一編の映画のようでもある。


大列車強盗
『大列車強盗』より
この窓枠を絵画のフレームとして考えるなら、その中に変容しながらあらわれる風景のあり方は、未来派の画家たちが絵筆を握るまで決して描かれることがなかった種類のものだ。彼らは、独自の理念に基づいて、はじめて速度のもたらす知覚を再現しようと試みた人たちだった。未来派以前に乗り物の姿をとらえた表現としては、例えばターナーの『雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道』(1844)が知られている。しかしそれは外側から眺めた乗り物の迫力は描いていても、ルイジ・ルッソーロ『自動車のダイナミズム』(1911)のように速度そのものに対して執拗な視線を浴びせ掛ける種類のものではない。1909年にF.T. マリネッティがフィガロ紙上に発表したマニフェスト「未来派宣言」は、速度とともに存在する、あるいは速度の内側からの表現を宣言したものだった。

乗り物での移動がもたらす独特な知覚は、車窓を映画のスクリーンに類比させることも許してくれるだろう。例えばいくつかのヒッチコックの映画には、密室のサスペンス性と複数の土地での出来事をダイナミックに結びつける乗り物の存在が不可欠だったと言ってもよい。あるいは加藤幹朗(加藤、2000)が同様に指摘するエドウィン・S・ポーター『大列車強盗』(1903)における鉄道も含め、それらの映画では、移動する内部空間はもっぱらスタジオ内に設置されたセットによって再現されていた。車窓の風景はと言えば、別に撮影された映像を二重露光という方法で後からオプティカルに合成処理して加えられた。つまり別々に撮影された二つの映像は、本来それぞれに独立していたはずの映像なのである。

『大列車強盗』の冒頭部は、この初期映画がすでに窓をスクリーンとして利用していることを教えてくれる。映画のなかに被写体としてとらえられた窓は、映画の所与のフレーム(スクリーン)の内部に象嵌された第二フレームとして機能する。(加藤『映画とは何か』2000、P.149

野心的な新しい映画作家らによってロケーション撮影というものが登場してからは、映像のリアリティや緊張感を維持する必要のために、別々の映像を合成して映画的状況を捏造することはなくなってしまった。(かわりに、モンタージュであるとか語りであるとかそういったことに映画らしさが展開されることになる。)あるいは加藤の言うように、「カット割り(とりわけクロスカッティング)」が成立する以前においては、「異なる場所でのふたつのアクションを因果的に『同時に』提示できるものは、外へと開かれた内なる窓の視野以外考えられな」かったことも関係していることを申し添える必要もあるだろう(加藤、同掲書、2000、P.151)。

高速道路から見下ろす眺め、クライスラー車のステレオで聴く超ロングヒット曲、そして熱波---これらを伝えるには、その場その場で撮った写真だけではもう不充分である。音楽や耐えがたい暑さをも含めてその全行程をリアルタイムで撮影し、自宅の部屋を明るくしてその映画を余すところなく何度も繰り返して映写する---こうして、高速道路と距離とがもたらす魅力、また砂漠のなかでのよく冷えたアルコール飲料と速度とがもたらす魅力を繰り返し味わい、自宅のビデオデッキでそれをすべてリアルタイムで再生する  必要があろう。それは単に思い出に浸るという楽しみのためだけでなく、ばかげた繰り返しによる魅惑(ファシナシオン)がすでに旅行の抽象作用のうちにあったからでもある。砂漠の広がりはフィルムの永遠性にこのうえなく類似しているのだ。(ボードリヤール『アメリカ 砂漠よ永遠に』1988、P.3

ボードリヤールの言うような光景に類するものは、例えばアメリカを舞台にした『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ、1976)や、これは夜間の風景はないけれども『グロリア』(ジョン・カサヴェテス、1980)などで確認することが出来る。こうした(比較的新しい)映画では、車内空間と風景とがひとつのカメラによって撮影されている。ほかに何をするでもなくただじっと移動空間に身を置く人物たちや、何の変哲もない車窓の風景を見ていると、漫然とした光景であるどころか、そこが映像のダイナミズムに満たされた空間であることに気付くだろう。

空間が映像の絶対時間(上映時間)のもとに構成されることになる映画の中では、移動空間の内と外もまた時間構成によって描写される。だから、カッティングやモンタージュといった修辞技法が用いられる以前の映画では、第二フレームとしての車窓がナラティブな要素のひとつとして重要だったのだ。それ以降の映画においてもこの車窓の修辞法は形を変えて映画に新しい効果を与えているはずである。おそらくそれが、車窓のダイナミズムの源泉であるだろう。

上空の風景
ここで、未来派の画家たちにとって重要だったのが、乗り物の中でも自動車や列車ではなく飛行機の速度がもたらす知覚への影響であったことを指摘しておきたい。彼らは、高速によって変容する大パノラマの視界に新たな芸術的ビジョンを見出したのだ。

一般に、飛行機や船の中から眺める風景は変化に乏しい。そのおかげで、豪華客船での世界一周旅行は、私たちを日常的な時間感覚の枠組みからゆったりとした時間のなかへと解き放ってくれる。陸と陸を隔てていたのが空間的な距離ではなくて、時間的な距離だったかのように錯覚させるのは、飛行機の窓から夢心地の眼下にひろがるあまりにも平穏で美しい(そして退屈な)雲の大海原のせいだ[注9]。深夜の高速道路でドライバーが目にしている幾つもの光の粒の静かで美しい流れが引きおこす感覚も、これとよく似ているのではないか。実際に空間は高速で移動しているのにもかかわらず、静止しているのか動いているのかさえ判断できないようなイメージに取り囲まれたとき、わたしたちは普段培ってきた正常な時間感覚を失って、一種の眩暈のようなものを起こしてしまうのだ。

こういった眩暈の感覚は、速度が移動空間の内と外を隔てる壁となることで生じていると言えるだろう。そのとき、移動している人間にとって、空間的距離は時間的距離に翻訳されてからでなければ知覚することが出来ないのである。

このような翻訳作業をとおして得られる知覚体験の中でもっとも身近なものとは、他でもない映画である。カッティングやモンタージュといった映画的修辞法はスクリーンという窓を挟んで内側の空間(映画内部)と外側の空間(現実)とで異なる速度を、受容者にとって知覚可能な経験に統制して提示する装置なのだ。すなわち映画とは視覚・聴覚における速度統制の技術であり、受容者にとっては速度の遊戯のひとつであると言うことができる[注10]

そもそも、映画と乗り物はともに、車輪という技術によって組み立てられた速度機械である。『ラ・シオタ駅への列車の到着』(ルイ・リュミエール、1895)における列車と映画のどこか示唆的に思われる出会いについて加藤は、どちらも19世紀末を代表する運動媒体(=速度機械)であったことを指摘している(加藤『映画とは何か』P.117)。またマクルーハンは、住環境の外爆発における「中心−周縁」構造の源泉を車輪と道路に求めている(マクルーハン『メディア論』、P.189)が、その変容の媒介変数として作用していたものとは、速度であると言えるだろう。


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Comments

名無しのリーク さん (04/16 13:15:32):
香川県ルーちゃん餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業
NnTf3WDsbpkl さん (05/08 04:59:39):
exactly knowledge is power, and don't think otherwise but coffee shop talk is all about who has the biggest ego! no one wants to back down and look stupid (eplceialsy not a mamak)

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About

「移動と定住」 は、taichistereo(入江太一) によって 2001年に執筆された 卒業論文です(学科賞 受賞)。

大学卒業後は ハードディスクの片隅にひっそりと眠っているだけでしたが、2007年に Nucleus CMS を用いて 改めてコンテンツとして蘇生させることにしました。

■ 当時の学籍 ■
東京工芸大学 芸術学部 映像学科 メディア計画研究室

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