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    <title>移動と定住</title>
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      <title>移動と定住</title>
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    <item>
 <title>要旨</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=2</link>
<description><![CDATA[<b>要旨</b><br />
<br />
乗り物をはじめとした速度機械／速度メディアの近代における飛躍的な発達は、進歩主義的なフロンティア・スピリット（開拓精神）の賜物であった。この態度によって、われわれ人間は定住生活の領土を地球規模にまで拡大し、グローバルな社会というものを築き上げたのだった。こうした空間いっぱいに広がる「外爆発」（マーシャル・マクルーハン）は、世界の細分化／専門分化のプロセスとともに進行を続けた。しかし現代において逆説的に、速度の技術は境界を飛び越え、融解させるという具合に作用する。すなわち自動車や飛行機といった今日的な乗り物は、空間的な外爆発の総仕上げの役割を任されたのと同時に、定位置にとどまりながらも身体を拡張する「内爆発」という相反するプロセスをも体現する装置なのである。<br />
<br />
ここで、いま無効化されつつある社会の境界・枠組みを＜家＞という概念に収斂させるならば、それは他でもない＜速度＞によって私たちの定住的なアイデンティティの帰属先が揺らぎ始め、空間の中に拡散しようとしているのだと言えるだろう。近代的合理主義が生み出したといってよい郊外という住環境は、＜速度＞に対するグローバルで画一的な統一規格にのっとって開拓された20世紀的なユートピアのひとつである。だがそこは、安住の地としてはあまりにもはかない場所だった。すなわち速度社会の成熟とともに、「こことよそ」の近接性ばかりを強調し、いま・ここにいるということの根拠を欠いた実存として私たちの定住的アイデンティティを胡散霧消させる＜非-場所＞（ノン・プレース）が台頭しつつあるのだ。＜家＞にまつわる定住民のテクノロジーは、＜速度＞を滞りなく運用するためのテクノロジー＝速度管制技術に取って代わられようとしている。<br />
<br />
本来私たちの手に負えないものであるはずの＜速度＞を所有し、「より速く、より遠くへ」と欲望を拡大再生産しようとする振る舞いが20世紀という時代のメッセージに基づいたものであるならば、現代の高度に発達した速度社会における我々の指針は、＜速度＞を安定したかたちで処するためのモラルということになるのではないだろうか。<br />
<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=2</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 01:01:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>０．前書き</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=3</link>
<description><![CDATA[<b>前書き</b><br />
<br />
私が当該論文において示そうとしている基本的な考え方は、現代における私たちの社会生活／個人生活が、速度のありかたについて改めて捉え直すべきターニング・ポイントを迎えているのではないかということである。<br />
<br />
この考えは、家電製品から自動車、コンピューターまでといったメディア全般の速度技術によって地球上のすべての地域が互いに近接した領土として結びつけられているという、ひとつの単純な事実に由来している。そのせいで、速度社会の住人たる現代人にとって、移動することと住まうことの境界はまったく曖昧なものになりつつあるのだ。<br />
<br />
こうした速度時代の要諦を担っている＜乗り物＞について考えることをきっかけにして、私たちはそれぞれ＜今、ここにいるということ＞について何らかの根拠のようなものを求めることができるのではないだろうか。つまり私が試みようとしているのは、移動する乗り物を中心に据えたときに想像しうるひとつの基本的な世界地図を作成することでもある。私は、その地図をもとにして、現代社会における私たちそれぞれの個人生活の所在について確かめることができるかもしれないと考えるのである。<br />
<br />
機械技術による細分化の働きの下で近代メディアに課せられていた役割とは、われわれの身体そのものを空間に拡張することであったとマクルーハンは言う。時間も空間も超越するようにして地球全体が定住社会の属領となった現在では、その広大な神経回路内を行き交う速度はすべてメディアに任されている。その意味で、マーシャル・マクルーハンやバックミンスター・フラーといった論客は、それぞれの観点から地球規模の速度統制技術を模索していた人たちなのである。<br />
<br />
それ自体が現代社会の大きな前提・よりどころであると言ってもよい＜乗り物＞には、わたしたちの日常的移動を担っている側面、遊戯的な側面、速度機械としての側面、グローバリゼーションが要求する基礎的メディアとしての側面といったさまざまな視点からの考察が加えられなければならない。本論では、現代において乗り物が果たす役割の多様性に軸をとりながら、メディア、住環境、遊びとテクノロジー、生き方（ライフスタイル）の順に、それぞれと＜移動すること＞との関係を検証していく。<br />
<br />
第１章「メディアとしての乗り物」では、メディアという現代社会の重要なタームと乗り物の存在を関連付けることによって、速度という社会変容の媒介変数についての記述を導き出す。また、人が定住領域を拡大してきた根拠を乗り物に求めることで、これとグローバリゼーションという大きな流れとの関連について考察する。<br />
<br />
次に第２章「失われつつある生活」では、主に郊外という住環境について検証していくことで、近代以降の定住生活のあり方を確かめていく。郊外と乗り物の存在については、アメリカという土地が雄弁な証言者としてそれらの時代背景を物語ってくれるだろう。この章ではアメリカに端を発するモータリゼーション、自動車という乗り物の普及が20世紀において決定的に重要な出来事であったことを明らかにしようとしている。同時に、わが国における新交通システムがある程度まで普及した事実をもとに、モータリゼーション以降の定住社会の動向について考察する。<br />
<br />
第３章「テクノロジー」では、乗り物の技術的背景ではなく＜あそび＞という観点から乗り物の非実用的な用途について考える。＜あそび＞のテクノロジーとしての乗り物の成立要件とは、言うまでもなく速度である。速度の遊戯と移動することとを併置させることで、現代において乗り物に期待される役割を探る。<br />
<br />
そして第４章では、＜移動すること＞と定住的アイデンティティの帰属対象としての＜家＞とのかかわりを通して、今後の個人生活の展望についての私なりの考えを示そうと試みている。ここでは、ノマドロジーや放浪といった個人の生き方、ライフスタイルについても言及することになる。これらの考察によって、現代における定住生活の意義について、多少なりとも概観を描くことができたことと思っている。<br />
<br />
最後に、この場をお借りして、執筆に際してご指導してくださった森岡祥倫教授、実松亮講師に感謝いたします。<br />
<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=3</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 01:00:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>１．メディアとしての乗り物</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=9</link>
<description><![CDATA[<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_4.html">１．１．乗り物というメディア</a><br />
<br />
<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_5.html">１．２．定住領域の拡大とメディアの外爆発</a><br />
<br />
<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_6.html">１．３．船と飛行機</a><br />
<br />
<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_7.html">１．４．メディア時代の速度</a><br />
<br />
<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_8.html">１．５．管理制御技術</a>]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=9</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:55:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>１．１．乗り物というメディア</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=4</link>
<description><![CDATA[<b>１．メディアとしての乗り物</b><br />
<b>１．１．乗り物というメディア</b><br />
<br />
一般に乗り物（vehicle）とは、人間や物資を運搬・輸送するものくらいに認識されているだろう。乗り物と言って皆が即座に思い浮かべられるものとしては、自動車や電車、飛行機、船、自転車あたりが妥当だろうか。だが例えば、ローラースケートやスキー、そりなどは乗り物と言えるのだろうか。また、エレベーターや動く歩道、それに馬などの動物について考えると、一体どこまでが乗り物でどこからがそう呼ぶべきでないのか、少しばかり面倒な話になってくる。このような混乱を避けるためもあってのことだろう、かつて川添登が乗り物について論考した際には、「移動空間」という表現を用いることで、変則的な空間論として乗り物を扱うことが出来た（<i>川添『移動空間論』、1968</i>）。だが今の私たちは、内部や外部と言った区分では立ち現れてくることのないような空間概念にも精通しているので、メリーゴーランドが本当に乗り物と言えるかどうか悩むよりも前に「テレビは乗り物だろうか」といったことに気が付いてしまう。<br />
<br />
テレビや新聞といったメディアが情報を運ぶ乗り物のように機能するものだということは、我々の日常的な感覚にもよくなじむ。本来なら「いま・ここ」で一回きりしか確認できないはずの情報をいつどこででも経験できるようにするのがメディアの役割であるわけだが、移動・輸送の手段として離れた２点間の時間・距離を縮めるという乗り物の基本的な役割は、メディア全般に見られる特徴的な性格でもある。<br />
<br />
Ｍ・マクルーハン的な汎メディア主義にのっとって言えば、人間の技術すべてが時間的・空間的に隔たったもの同志を結びつけるメディアとしての機能を持つ。乗り物は特に、速度というメディアの持つもっとも重大な能力を体現する機械技術であるから、私たちの移動というものはおのずと越境的な性格をおびることになる。上野俊哉は「速度都市の交通人にふさわしい」概念として＜トランス・イグジステンス＞（越存）なる造語を提示していたが（<i>上野『思考するヴィークル』、1992</i>）、この言葉自体は特別何かを意味するというものでもなくて、ただ、横断的なメディアの性格と移動する乗り物の関係を並置して見せる比喩のようなものでしかない。また何も実在論にひっかけなくとも、乗り物がメディアとして機能するものであることは、テレ・プレゼンス（遠隔現前）の技術がもたらす越境的な「いま・ここ」の感覚が充分に説明してくれる。<br />
<br />
現代の私たちにとっては「いま」という特定の時間、「ここ」という特定の場所は他の時間・空間との包括的な関係と切り離すことの出来ない複数性を伴ってあらわれるもののように思われる。例えばインターネットというものはマクルーハンの言う＜地球という村（グローバル・ヴィレッジ）＞のイメージが最も愚直な形態でそのまま具現化されたかのようなテレ・コミュニケーション技術であるし、コンピュータの情報処理能力の向上とともに人工的な仮想現実の空間概念もいよいよ身近なものになってきた。また工学的な技術分野だけではなくて、すくなくとも至上原理主義的に考えれば、世界経済においては「見えざる手」の存在するような抽象的な経済市場が越境的に広がっているものだ<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_26.html#tyu1" target="_blank">[注１]</a>。それというのも、貨幣というメディアが流通することで土地の固有性に根ざした文化的隔たりがひとまず解消されてしまっているからである。<br />
<br />
数多くのメディア技術のおかげで、私たちはある地点にとどまっていながら他の地点との関係を結んでいられる。このとき、とどまることと移動することという相反するふたつの行為をある種のライフスタイルとして融解させているのは乗り物というメディアであるだろう。<br />
<br />
乗り物がメディアとして機能するという考え方は、メディアそのものが移動を前提にしている技術だという事実に由来している。乗り物による物理的な輸送（transport）に対して、電気メディアの即時的な伝達（telecommunication）を瞬間移動（teleport）に例えてもよいだろう。メディアが乗り物である、というのは単なる比喩でなくて、より高精細度のテレ・プレゼンスを実現しようと発達してきた電気メディアと、より速くより遠くへと発達してきた乗り物とは区別して考えることの出来ない、速度技術という近代のひとつの発明なのである。「一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっ」た（<i>Ｍ.マクルーハン『メディア論』1964、P.3</i>）と表現されるような20世紀という時代において、文字通りその内爆発の一翼を担ったのは地球を周回して移動する飛行機や果てしなく延伸された舗装道路を突き進む自動車などの乗り物だった。電気の速度や光の速度で移動する乗り物、それが近代以降のメディアが果たす役割である。<br />
<br />
このように、乗り物というメディアは人間の足を拡張する技術であるだけでなく、いまやメディア全般の足下を支えるものと言っても過言ではない。変容の過程について正確を期するなら、道具としての乗り物がメディアそのものへと変容する間には、娯楽としての乗り物の側面が発見されていることも忘れてはならない。鉄道と自動車によってその役割を失った乗り物としての馬（騎馬、馬車）は、乗馬という娯楽の形でかろうじて生き残っている。あるいは、乗り物に乗ること自体が娯楽として成り立つような快楽性を持っているという点も見逃せない。自動車によるドライブやレース、鉄道旅行の車窓から眺めるパノラマ風景、飛行機や船からの遊覧など、輸送(transport)の手段である乗り物は、遊びやスポーツ（sport）にも近くなってくる。<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=4</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:54:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>１．２．定住領域の拡大とメディアの外爆発</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=5</link>
<description><![CDATA[<b>１．メディアとしての乗り物</b><br />
<b>１．２．定住領域の拡大とメディアの外爆発</b><br />
<br />
乗り物を発達させてきた前提のように思われてきた「より速く、より遠くへ」という人間の本能とはつまり、安定した集団生活を営むことができるような定住領域を拡大しようとする努力だったと言えるだろう。馬を操る遊牧民族たちが遊牧したのもまさにこのためで、彼らは季節ごとに異なる生活要件を満たす場所を巡って移動していた。遊牧民族といえどもその都度その場所で短いながらも定住生活を送り、時期になればつぎの定住領域へと移動する。彼らにとっては、定住領域というのは長いスパンから見たときの行動領域である。このように考えると、今日の乗り物というメディアや電気の速度のメディアが奨励する「現代的な」生活というのも、高度に発達した定住生活でありながら、遊牧生活とさして変わらないように思えてくる。<br />
<br />
機械技術がそれに取って代わるまでは、遊牧生活にしろ定住生活にしろ、移動の手段には馬やその他の動物がそのままの形で用いられていた。定住生活が農耕に基づくかたちで営まれるようになってから、馬には車輪という原初的な機械技術が結びつけられ、荷馬車と乗り合い馬車がそれぞれ輸送と移動を担うことになってから、機械技術は高度な集団社会の形成を促し、さらに定住領域を拡大し始めた。マクルーハンは都市化、郊外化という住環境の変化する過程を田園が細分化される外爆発の運動として説明している。「この外に向かっての爆発を放射状あるいは『中心―周縁』の形で表現したもの、また促進したもの、それが車輪と道路であった」（<i>Ｍ.マクルーハン、前掲書、1964、P.189</i>）。都市と郊外それぞれの集中性は車輪を用いた交通の出現によってもたらされたものだった。<br />
<br />
中世の西欧社会に都市が成立して以来、農村の過疎化と都市の過密という傾向は現代に至るまで次第に顕著になっていくが、これを定住領域の拡大という観点から考えると集団社会は農村、都市、郊外の順に機能を拡大してきている。近代以降の産業・商業の発達とともに、農村から都市へと労働力が集中し、都心部に収まりきらなくなった人口が市街化、郊外化した周辺地域に拡大したということだ。このとき、農村と都市を結び、都市と郊外を結ぶメディアとして機能しているのは、自動車である。<br />
<br />
車輪の発明以降、機械の技術は鉄道馬車を生み出し、次に蒸気機関で走る鉄道を生み出した。そして次に誕生した自動車が、機械技術の最後を飾る存在となったのである。自動車が蒸気機関の原理を小さくし、点火に電気のスパークを用いたときから、乗り物と電気は切り離せないものになったとするマクルーハンの考えに従うなら、自動車とは、機械技術が引き起こしていた＜外爆発＞が終息し、電気技術の＜内爆発＞へと移行した転換点そのものを内含する機械技術あるいはメディアであるということになる。当のマクルーハン本人は「事実の枠組みが普遍であることを前提として」変化している事態について予言することの問題点に気付きながらも、自ら10年もすれば「エレクトロニクスによる新しい車の後継者」が誕生するという予言でこの重要な生き証人について語るのを止めてしまっているのだが、彼にとっては機械技術の末裔である自動車よりもむしろテレビという典型的な「内爆発を引き起こす」メディアの方が気がかりだったようだ。それはともかく、彼の指摘する通り、技術的には蒸気機関車の流れを汲んでいた自動車に電気の技術が付与されることで、画一的に規格化された商品としての自動車が生産されるようになったのだった。それを可能にしたのはフォード・システムと呼ばれた流れ作業の生産プロセスだ。大衆向け自動車とその生産プロセスは、機械技術（マクルーハンのいうグーテンベルク的技術）の最大の特徴である画一化・細分化・専門文化の究極の姿である。<br />
<br />
農村―都市―郊外という近代以降に現れたトライアングルにおけるそれぞれの関係を媒介しているのは、乗り物、特に現代では自動車である。先ほども述べたように、農村と都市、都市と郊外の関係におけるメディアとしての乗り物は、それぞれの間における物資の流通と人の流れを支えている。農村−都市間には農村から社会機能と労働人口を集中させて、都市が分配するという循環的な関係があり、都市―郊外間には職住分離に伴ってあらわれた通勤という日常的な往復関係がある。では残る郊外―農村間の関係とはどのようなものだろうか。<br />
<br />
ここでひとつ確かなのは、乗り物というメディアは、無形の情報ではなく人間や物資そのものをトライアングル内で媒介するという点で他のどんなメディアとも決定的に異なっているということだ。遠く離れた二点間の隔たりを省略するという性質は人の技術・メディアすべてに共通しており、こうしたテレ・プレゼンスの可能性が乗り物による人や物の物理的な移動を前提としていることは先にも述べた通りである。こうした先駆性はしばしば乗り物という技術が時代遅れである証拠と見なされることがあるが（マクルーハンにおいても然り）、大きな誤解と言わねばならない。乗り物に任された特権的な役割とは、距離を省略し行動／定住領域を拡大することで物理的な空間に働きかけることであり、私たちの社会の枠組み（フレーム）はいつでも乗り物というメディアによって規定されているのである。<br />
<br />
集団社会の機能が集中して成立しているという意味では、都市と呼ばれる地域は農村―都市―郊外というトライアングルにおいて明らかに中心的・上位的な役割を果たしていて、一方の言わば都市に奉仕するようにして存在する農村と郊外の側では、互いの積極的な関係があまり成り立っていないように思われる。時として、特別な施設・商店・風景・歴史のあるために「訪れる郊外」（雑誌などで紹介された「おいしいお店」など）や「訪れる農村」（例えば、合掌造りの民家の集落が世界遺産に登録された岐阜県白河郷などの観光地）としての往復はあったとしても、決して恒常的な関係を乗り物が媒介しているとは言えないだろう。農村と郊外との関係が絶たれていることの背景にはまず、都市に寄生して存在する郊外という地域の特殊性があるのだが、郊外については次章でさらに踏み込んだかたちで記述しようと思うのでそちらを参照していただきたい。ここではただ、農村と郊外が実はそれほど違わない地域であること、つまり生活圏としての農村と郊外は自動車などの乗り物が媒介物として間接的に作用することで均質化されて保たれているのだということで説明とするにとどめておこう。<br />
<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=5</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:53:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>１．３．船と飛行機</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=6</link>
<description><![CDATA[<b>１．メディアとしての乗り物</b><br />
<b>１．３．船と飛行機</b><br />
<br />
ところで、このトライアングルの一端を示す農村は、定住生活の始まりの地である<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_26.html#tyu2" target="_blank">[注２]</a>。人の技術が生み出した始めての乗り物である船は、農耕を始めるまでの狩猟採集生活を豊かにして、時を経て西欧社会が新大陸を発見するときにも用いられた。この広大な土地を有する新大陸においてモータリゼーションが爆発的に広がることになるのだが、モータリゼーションとそれに伴う郊外型文化の形成される過程についてはやはり後に詳しく触れることにして、ここではまず船という乗り物に着目することで、交通メディアと大地との関係について検証していくことにする。<br />
<br />
<div class="rightbox" style="text-align:center;"><br />
<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/1/20070816-soblinoftheseas.jpg">客船「ソブリン・オブ・ザ・シーズ」</a><br />
客船「ソブリン・オブ・ザ・シーズ」<br />
</div><br />
現在の船に任された役割は、大航海時代のような定住領域の拡大にあるのでも農村―都市―郊外を媒介することにあるのでもなくて、物資の運搬を除けばただ漁業の手段や、釣りや遊覧旅行などの趣味の用途に限られている。たしかに海の乗り物と言えば今でも船に類するもの以外考えられないのだけれども、いまや海を越える移動は、空を飛ぶ移動にとってかわられたといってもよかろう<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_26.html#tyu3" target="_blank">[注３]</a>。石油や核燃料などを遠く離れた国家間で輸送する際には飛行機や自動車ではなくタンカーなどの運搬船が用いられるが、自動車はもちろん飛行機に比べても人・物を運ぶ役割はかなり限定された小さなものになってしまった。こういった事態の変化には、どうやら、船という乗り物による移動・運搬を保証するのが海という特殊なフィールドに限られているということが関係していると見て間違いなさそうである。<br />
<br />
単純に、海という領域は陸や空とは根本的に違うものなのだと考えることもできる。これは動物の生態を考えれば当然のことで、空を飛んでいる鳥も住み処とするのは陸生生物と同じ陸（あるいは樹木）で、進化の歴史を辿ればどちらも同じほ乳類ということになる。イルカやクジラは別として、大地より上に住むほ乳類にとって海は基本的な生活圏に含まれない特殊な領域で、水の中に生きる魚などの生物にとって海以外の領域は特殊なのである。<br />
<br />
ここで、我々にとって特殊な領域での定住生活の例として、たとえば東南アジア地域の河川で見られるような住居として機能する船の存在が挙げられるが、それはあくまでも海面を大地の延長にしてしまっているだけのことである。船が最も早い時期に生まれていた乗り物であるということは、ただ水に沈まずに浮かぶことのできる箱を作るだけの技術があれば、あとは帆によって生まれる風力や櫓による人力を使って動力にすればよかったからである。よって住居としての船とは、要は海を埋め立てて新たな大地を造成していることと何も変わらない。<br />
<br />
実はこのことは船のような海（水）の乗り物全般に言えることで、魚のように＜泳ぐ＞ことのできる潜水艦といえども、その内部空間は大地を延伸するようにできた構造体なのである。潜水艦や豪華客船などは、移動手段としてのスピードよりもむしろ、住居としての設備の方をまず考えなければならない。遠洋で長く滞在する必要のある漁業船などの場合も居住性を一定の水準までクリアしている必要がある。例外的に軍事用途で開発された潜水艦や戦艦、それに警備艇などは、目的遂行のためにスピードを重視しているだろうが、それでもできるだけ大地の設備・建造物のような安全性を損なってはいけない。<br />
<br />
このように考えると、飛行機という乗り物も、延伸された大地として空に浮かぶ構造体であると言えなくもない。陸（大地の抗力）や水面（浮力）といった支持体なしに移動するジェット機と潜水艦は、ボディの形態、尾翼の存在やスクリュー／プロペラという推進装置など基本的なところで非常に似通っている。我々人間にとっては空という領域もまた、海と同様に特殊な領域なのである。<br />
<br />
<a href="xml-rss2.php?imagepopup=1/20070817-kashima_port.jpg&amp;width=500&amp;height=208&amp;imagetext=%BC%AF%C5%E7%B9%C1%A1%CA%B6%F5%BB%A3%A1%CB" onclick="window.open(this.href,'imagepopup','status=no,toolbar=no,scrollbars=no,resizable=yes,width=500,height=208');return false;" class="thumbnail"><a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/thumbnail/1_20070817-kashima_port.jpg">鹿島港（空撮）</a></a><br />
<br />
海の移動の少なくともある部分が空の移動に取って代わられたことの主な原因には、飛行機が最も高速で移動できる乗り物であることが挙げられる。誕生して間もなくの頃の飛行機は、もちろん今のように高速でも安全でもなかった。飛行機の原点は、揚力を利用して作られたリリエンタールのグライダーに求めることが出来るだろう。自動車の場合と同様に、電気の力が現在の飛行機の高速移動、大量輸送、安全性といった均質的な水準を維持・実現している。機械技術に加えて電気の技術を獲得し、電気メディアの時代を迎えたことで外爆発が終息し内爆発へ向かうというマクルーハンの言説に則して言えば、画一的な安全性が人々の間によく知られ、規格化された移動サービスとして普及した飛行機という乗り物メディアは、内爆発を促進する電気メディアの前提として機能しているということだ。ここで言う電気メディアによる内爆発が、高速の移動による時空間の圧縮を指し示すものであることは言うまでもない。その意味では、内爆発の時代、すなわちメディアの時代における主要な乗り物とは、基本的技術において電気エネルギーの貢献が大きい自動車や飛行機といった乗り物ということになり、逆に船や自転車などはそれほどの役割を担わされていないといったことが言えるだろうか。<br />
<br />
]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=6</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:52:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>１．４．メディア時代の速度</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=7</link>
<description><![CDATA[<b>１．メディアとしての乗り物</b><br />
<b>１．４．メディア時代の速度</b><br />
<br />
自動車と飛行機という当代的、あるいは20世紀的な乗り物メディアの利便性と速度とが、そのままわれわれの社会のいっさいの移動に関する統一規格として働いている。この利便性と速度は、文明がその誕生以来ずっと求めてきた＜快適な生活＞というものには欠くことのできない要素で、水道やガス、それに電気といったサービスはこの二つを実現することで公的なインフラストラクチュアとなった。<br />
<br />
つまり私はここで、＜快適さ＞という度合いとして漠然としたものを、サービスの＜利便性＞とすみずみにまで行き届くことで結果的に時間と空間を圧縮するための＜速度＞という二つの要素に分解して考えている。だから、現代におけるサービスというものに我々現代人が当然のように期待してしまう水準に＜速度＞までを含めるのだとしたら、利便性と速度とは同じことを指していることになるだろう。あるいは、インフラストラクチュアに期待される水準とは個人間の思いやりの心ではなくサービスの＜速度＞であると考えたら、利便性とは結局のところ＜速度＞なのである。<br />
<br />
道路が社会的なインフラストラクチュアであることに何ら疑いの余地はないが、それでは自家用車はそう呼べるだろうか。これは水道や電気の場合と同じで、水道管や電線はインフラストラクチュアという構造体であるが、水や電気はそこを流れるだけのものである。交通網を人間の血脈に例える比喩を引き合いに出すなら、血管は＜流れ＞の支持体（つまりインフラ）であるが血液はただそこを流れ、循環しているものだ。血管を流れるのは必ず血液でなければならず、水やガス、電気、自動車では用を成さない。血管の中以外のところに血液があれば、それははなはだ迷惑というもので、少なくとも血液は所定の循環をしていなければ他には役に立たないものである。これと同じように、ハイウェイは歩行者や自転車を受け入れず、空の道は自動車を受け入れない。電車にはレールと電線という別の環境設備が必要である。細かな部分を無視して概観すると、時として交通網が速度ごとにそれぞれに適当なフィールドを割り振っているようにも考えられるのは、こういった＜流れ＞を滞りなく、適当な速度で循環させることがインフラストラクチュアの至上命題であるからだ。<br />
<br />
こうした目に見えるかたちで存在する世界中に完備されたインフラストラクチュアは、グローバルな結合性に関する極めて現象学的な比喩として見ることも出来る。そして物理空間における距離の省略・圧縮という意味では、そこを行き交う＜流れ＞が、こことよそとのグローバルな近接性のイメージを可視化していると言える。つまり、決して目に見えはしないがたしかに私たちとともに存在しているはずである＜流れ＞が、不可視的な構造体であるメディアの力によって処されているということの物理的なあらわれとして乗り物は存在している。このような見方が成立することが乗り物というメディアの特権的な立場でもあって、速度や流れといった漠然と私たちを取り巻いている概念は、メディア・ヴィークルを仲立ちにして体感可能なものとして現前しているのである。移動することがこの世界の速度を規定している事実は、速度がｍ／ｓという単位（時間あたりに移動した距離）を用いて表わされることからも明らかである。<br />
<br />
物理におけるもっとも基本的な公式を参照すると、速さの度合いとは、ある移動・運動における物理的な距離と時間の数値を用いた「速度＝距離／時間」という関数で表わされる。この科学的事実は私たちに速度についての一定の理解を与えてくれるものではあるが、しかし実際は、時間のほうが移動によって測られたのではないかという率直な疑念が生まれる（<i>川添、1968</i>）。つまり物理が目に見えない時間というものを扱う場合は、時計の針を用いて物理的な時間を計測することで、針の移動の前と後の時間を関数のグラフに記入できる数値に変換している。私たちの一般的な感覚でも、川が流れるのと同じように時間はどこからかやってきて、やがてどこかへ通りすぎていくような空間的・線条的な運動と錯覚されてとらえられている。しかし空間と時間が本質的に全く異なるものである限り、グラフ上の物理的な時間として方法的に定義することは出来ても、我々が想定するような絶対的時間というものは本当は存在しないのだということになる。<br />
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線条的なモデルにおける絶対的な時間という概念が、何事も空間的にとらえて考える自然科学的な態度を長年にわたって育んできたギリシャ、ヨーロッパなどの西洋的な伝統から生み出されたのだとするならば、そういった文脈に収まりきらない爆発的な事態の推移が見られたのが、20世紀という時代であったと言えよう。20世紀の速度は、距離と時間を省略することで物理関数の枠組みから大きく逸脱して、不可視的な情報の流れを処するメディアのレベルに達した。こうした変容を経たあとの状況において速度そのものに有効な単位を与えることはもはやできなくて、メディアの時代に対応した「速度×マス」というメディアと乗り物の関係に対する新しくて柔軟な定義が必要だ。（『20世紀のメディア?速度の発見と20世紀の生活』1996より奥野卓司＋小松左京『対談 メディアとしての速度』P.172）以前なら、速度は記録更新や冒険の精神に結果としてついて回る単なるあらわれでしかなかった。新大陸アメリカに端を発するモータリゼーションの達成も、もとは移民たちの開拓精神が切り開かなければならなかった必然的なフロンティアのひとつに過ぎなかったと言えるかもしれない。ところがいまや、速度はわたしたちの社会のもっとも基本的な福祉・サービスであり、これによって20世紀におけるわれわれ人間の総経験量は飛躍的に増大され、現在まさに体験しているこの生活を保障されているのである。すなわち「速度×マス」という単位の必要には、速度技術の発達とともに速度そのものが大衆化したという背景がある。乗用車をはじめとする乗り物による移動の普及によって、個人生活に社会的規範・スタンダードとしての速度がもたらされるということが大衆レベルで起こったのが近代である。<br />
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こうした考えかたは、もちろん乗り物の速度についてのみあてはまるのではない。メディア全般が、技術の発達とともに高精細度化することで、速度福祉の充実に貢献し、速度なしではありえない社会を実現したのである。インフラストラクチュアなどの環境設備が国家や行政から提供されることはあっても、その＜流れ＞の方は個々のメディアに組み込まれた速度の技術とともにある。<br />
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<div class="leftbox"><a href="xml-rss2.php?imagepopup=1/20070817-keizai.png&amp;width=317&amp;height=243&amp;imagetext=%B9%E2%C5%D9%B7%D0%BA%D1%C0%AE%C4%B9" onclick="window.open(this.href,'imagepopup','status=no,toolbar=no,scrollbars=no,resizable=yes,width=317,height=243');return false;" class="thumbnail"><a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/thumbnail/1_20070817-keizai.png">高度経済成長</a></a></div>特に20世紀の家庭に大きな影響を与えた、家電メディアにおける速度の技術は重要な意味を持つ。「本来は効率性とは無縁のはずの家庭に、速度がもちこまれたことで、家族にとって、家庭の意味は激しく変容する。それがまた、家族の一員たる人間一人ひとりの感性や心身にも深く反映していく。こうして20世紀の価値観が形成されてきた」（<i>奥野『20世紀のメディア?速度の発見と20世紀の生活』1996、P.209</i>）。50年代の日本で＜幸せな家庭＞の必需品としてもてはやされた三種の神器（テレビ、冷蔵庫、洗濯機）は60年代の高度経済成長期に差し掛かる頃には確実な普及を見せはじめ、今度はクーラー、カラーテレビ、それに自家用車（マイ・カー）を加えた３Ｃがうたわれた。家庭が電気の速度を獲得するなかでテレビが家庭の新たな窓口になりえたとするなら、自家用車は新しい玄関口として、家庭と全体社会というウチとソトのわけ隔てない「均質な」20世紀的速度を提供した。＜家＞という枠組みによってなされるウチとソトの区別はそのまま、家庭内の無償労働（家事）は女の仕事で、社会的な賃金労働は男の仕事という近代的なジェンダー秩序の前提と等しい関係にあるものだった。<br />
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<div class="rightbox"><a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/1/20070817-tailfin02.png">テイル・フィンのパストフューチャー的プロダクトデザイン</a></div>こうして速度が大衆化していく事実を象徴的に示しているのが、ドリームカーと呼ばれる車の、当時のアメリカにおける未来志向的なモダン・デザインである。とりわけ有名なのは、実際の空力学的には何の役にも立たないにもかかわらず、無限の速さを誇示するかのようにデザインされた象徴としてのテイル・フィンだ。「この翼のかたちをしたものは本当のスピードのしるしではなく、限界のない最高のスピードを意味している・・・（中略）・・・エンジンが実在する動力であるのに対して、翼は想像上の動力である。」（<i>ボードリヤール『物の体系』、1968、P.66</i>） 20世紀的な未来（パスト・フューチャー）のイメージを象徴するデザインは車だけでなく、あらゆる製品に見られる。特に19世紀末に始まり20世紀に全盛を迎えた万国博覧会は、こうした意匠を一堂に会する格好の場であった。同時にそこは、速度を始めとする近代的フロンティアの見本市でもあったと言えるだろう。<br />
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生活の＜快適さ＞をもとめた経済成長が時間差を伴いながら世界各国で始まる一方で、速度が形作る新しい回路は、それまでのような＜家＞の強固だった枠組みを溶解する。このとき国家という大きな＜家＞も例外ではなくて、家庭と同様に流動的な器としての機能、シンボリックな役割しか果たさないものになった。このように「より速く、より遠くへ」切り開かれるべきフロンティアや＜家＞概念を、近近代の速度が越境し無効化してしまった現代でも、たしかにわたしたちの生活は何らかの＜快適さ＞に向かって進んでいるように思われる。その大きなビジョンのひとつとして資本主義社会が暗黙のうちに合意していたのが、グローバリゼーションという方向性であることは間違いないだろう。<br />
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]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=7</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:51:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>１．５．管理制御技術</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=8</link>
<description><![CDATA[<b>１．メディアとしての乗り物</b><br />
<b>１．５．管理制御技術</b><br />
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<div class="leftbox"><a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/1/20070817-earthfromspace.jpg">宇宙から地球</a></div>現代の速度メディアによる「グローバルな」近接性が要求するのは、これまでのような利便性を追求する態度ではない。メディアと乗り物の関係に対して「速度×マス」という定義を新しく付与するには、利便性とはまったく別の種類の速度を模索する必要がある。それこそが「福祉としての速度」であるわけだが、このことに関して、2000年10月に、世界経済の中心の一つとして機能していたスカイスクレイパーを崩壊させたのが爆弾や兵器ではなくて飛行機であったことは極めて示唆的だったと言えるだろう。あれだけ強固であるように見えていたグローバルな結合性というものも、ひとたび移動の安全性が損なわれてしまうことで簡単に引き離されることを旅行者は身をもって知らされたのだった。日本でも昨今さかんに「危機管理」なる言葉が繰り返され表向きは「この国の安全神話は崩壊してしまった」ということになっているのだが、本当にそのような神話が世界中のどんな地域からもなくなってしまえば地球規模に広がった定住社会は機能しなくなるのだ。<br />
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なぜなら、自由に移動できることの確からしさがグローバル社会の基盤をなしているからである。自動車や飛行機のような今日的な乗り物による移動は行動領域におけるものであると同時に定住生活の手段でもあるわけで（<i>川添『移動空間論』1968、P.103</i>）、地球規模の定住領域における社会生活はこの交通メディアの安全性によってはじめて保障されるのだ。現代社会における移動の重要性を考えた場合、アメリカで引き起こされたテロ事件は、当事者たちの思惑は別にしても、宗教原理主義に根ざしたローカル性からの、グローバリゼーションという単一化・均質化の運動に対する（最も効果的な）アンチテーゼのように見えてしまう。<br />
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<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/1/20070817-accident_.jpg">乗用車の衝突実験</a><br />
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ただしここで見誤ってはいけないのは、旅客機による空の旅で形容されるようなグローバリゼーションという言葉にはしばしば、世界を文化的、経済的、政治的にあらゆる面で単一化するという意味がこめられるが、当のグローバリゼーションの概念そのものは本来、現代社会が自らのしくみについて言及するときに必要とされるような単なる準拠枠にすぎないということだ（<i>Ｊ・トムリンソン『グローバリゼーション』1999、P.30</i>）。だからアメリカ同時多発テロ事件について考えてみてもわかるとおり、グローバリゼーションはそれぞれの地域を単一の集合体にまとめあげるのではなくむしろ文化的差違を強調しさえするという逆説的な側面も持ち合わせている。これは資本経済がさまざまな広告戦略を用いて訴えかけてくるような文化帝国主義的なグローバリゼーションのイメージとはほとんど無縁の状況であるようだ<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_26.html#tyu4" target="_blank">[注４]</a>。だから、テロリズムが標的にしたのはグローバリゼーションの事実上のリーダーとしてのアメリカではなくて、むしろアメリカが自負してやまない覇権主義そのものだったということかもしれない。<br />
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ともあれ、クローバルな結合性に寄与する速度と安全性というふたつの大きな前提を暗黙のうちに強く信頼していなければ、こことよそとの近接性は保障されないということがおわかりいただけただろうと思う。一連のテロリズムが郵便物という交通メディア（＝輸送メディア）にも重大な危険の影が色濃く反映されたことでアメリカ国民が大変な迷惑をこうむったことも、メディア・ヴィークルにとって安全性の裏打ちがもっとも重要であること如実に物語っている。つまり乗り物やその他のメディアには、隔たりを省略し、越境する速度だけでなく、＜流れ＞そのものの恒常性が求められているのである。<br />
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安定した速度の維持、それは近代的な合理主義やフロンティア・スピリットでは決して捉えきれない、現代の隠されたパラダイム・シフトであろう。それまでは、こうした速度のあり方に対する要求は、発達をつづける機械技術の裏側に常に潜みながら、近代的精神に基づいた進歩主義によって表面化することなく処理されてきた。快適な生活に対する欲求を「福祉としての速度」という新しい見地から捉えなおすには、近代化の外爆発が終息しきるまで待たねばならなかったということだろう。わたしたちの身体が正常な機能の維持に努めているのと同じように、私たちはいま地球規模に広がった神経器官の速度機能を維持しなくてはならない時に直面している。言い換えればそれは、定住社会から速度社会への臨界点を迎えているということだ。これまで目に見えるかたちで発達してきた定住生活のための技術は、不可視的な速度を前提とした社会を維持・制御するための技術への方向転換を余儀なくされるだろう。<br />
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いやむしろ、こういった速度管制の技術は現在も世界中さまざまなかたちで機能していると言ったほうが正確かもしれない。私たちの用いる日常的な速度は、社会システムのなかに組み込まれ、監視されているのだから。ハイウェイというのは、高速の開放による速度の自由を与えてくれる完全な＜フリーウェイ＞ではなくて、交通がスムーズに恒常性を保つように最低速度が制限されている。その意味で、自動車はレールの上を走る汽車と同じように管理制御されている。あるいはハイウェイそのものが交通信号と同じように速度を監視するシステムとして機能していると言うことも出来る。<br />
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こういった目に見えないところで機能しているシステムがグローバリゼーションにも強く関与していて、おまけに私たちそれぞれの個人生活における考え方というものにも大きく影響している。このことは今まさに起こっている転回が非常に大規模なレベルで浸透するものであることを示している。いまおそらく、私たちにとってのよりよい生活というのは前世紀の「より速く、より遠くへ」あるいは「テレビ、冷蔵庫、洗濯機」というような、率直に物理的な利便性に還元できてしまうものではないだろう。むしろ「現在をどうやって維持するのか」あるいは「どうすれば維持できるのか」という、いま・ここでの模索のなかに未来へのビジョンがあるのではないだろうか。<br />
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]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=8</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:50:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>２．失われつつある生活</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=14</link>
<description><![CDATA[<a  href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_10.html">２．１．アメリカ</a><br />
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<a  href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_11.html">２．２．郊外の住環境</a><br />
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<a  href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_12.html">２．３．郊外の乗り物</a><br />
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<a  href="http://taichistereo.net/sotsuron/item_13.html">２．４．自動車と定住様式</a><br />
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]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=14</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:49:00 +0900</pubDate>
</item><item>
 <title>２．１．アメリカ</title>
 <link>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=10</link>
<description><![CDATA[<b>２．失われつつある生活</b><br />
<b>２．１．アメリカ</b><br />
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アメリカは高速道路に過ぎない。こう言いきってみせたのはフランスの社会学者、Ｊ・ボードリヤールであった。かのマクルーハンも、「アメリカ人は四つの車輪をもった生き物であると言っても過言ではない」と述べている（<i>マクルーハン『メディア論』1964、P.222</i>）。今こういった表現を理解するのは何ら難しいことではない。まさにこの指摘のとおり、アメリカは自動車の存在なしには成り立たないような国なのである。そもそも、白人たちによるアメリカ建国の過程が、当初は南へ、次いで西へという開拓の精神に基づいている。この場合、開拓とはすなわち馬車の行き交う道路を作るということだったのだから、アメリカの国土はその道路交通の広がりと等しかったというわけだ。<br />
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<div class="rightbox" style="text-align:center;margin-left:20px;"><a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/1/20070817-T_ford.jpg">フォードＴ型（1908−27）</a><br />
フォードＴ型（1908−27）</div>近代的な進歩主義が大航海時代に発見した手付かずのまま広がる新大陸において、モータリゼーションという次なるフロンティアに開拓の矛先が向けられた。そして、このアメリカに進歩の舞台を移してから、脈々と続いてきた西洋社会の構造は大きく変化していく。それが前章で取り上げた社会のグローバル化という厳然たる事実である。この章では、視点をもう少し引き下げて、私たちの身の回りの住環境と交通メディアとの関係を検証していく。<br />
<br />
前述のモータリゼーションとは、狭義には20世紀に入って登場したフォードＴ型によって自動車が飛躍的に普及したことを指すが、それは住環境の郊外化や流通体系の高度な合理化といった社会構造の包括的な変容の契機となる大きな事件だった。モータリゼーションの潮流が爆発的に広がった背景には、ベルトコンベアを完備した工場による大量生産の開始だけでなく、ヘンリー・フォード自身による道路建設への投資があったことも挙げられるだろう。新しく道路が出来るということは、その上を行き交う自動車も必要とされるということだから、大衆普及車の父はすすんで自動車の売れるような環境を整えていくのだった。<br />
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チャールズ・チャップリン作『モダン・タイムス』（<i>1936</i>）では、工場の流れ作業はまったく非人間的なものとして皮肉って描写されていた。チャップリンが演じるところの人間味あふれる、とぼけたパーソナリティーは合理的で無機質なフォード・システムとは相反するものだったため、どこか不条理とも思えるようなおかしみをたたえていた。あそこまで極端でなかったとしても、近代という時代には大なり小なり人間性と矛盾を示す傾向があったということに異論を唱える人はないだろう。専門分化したシステムによって合理性を追求した生産モデルが近代における進歩主義のもっとも大きな仕事のひとつであったことは間違いない。時を経ることでますます高度に洗練されていった合理主義的な思考は、発達した交通メディアによる陸の走破と空への進出で極限にまで高められている。<br />
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20世紀の初頭から国土全体に広がる高速道路の敷設が始められるに至って、自動車のための道路はアメリカにとって最も重要なインフラストラクチャーのひとつとなった。なぜなら、1948年にマンハッタンの都市部から４０キロ離れたところに完成したレビットタウンを皮切りに、モータリゼーションを前提とした大規模な住宅地が次々に開発されていったからである。ここに、今日われわれが目の当たりにしているような、高速道路の足元に花開いた郊外型社会の始まりを指摘することが出来る。その典型が、ロードサイド・エンパイアーズとよばれるビジネスモデルの繁栄である。まず1920年代には、自動車が長距離を走るうえで必要になってきたガソリンスタンドが、インターチェンジやジャンクション付近に生まれはじめた。ガソリンスタンドは自動車にとっては道路とセットで配備されていなければならないという意味では最低限度の環境設備（インフラストラクチュア）に類するものであるが、それは同時にロードサイドという新たな市場の先鞭をつける存在であったと言える。その後少し遅れて登場したモーテル（モーターホテル）と類比して考えればより明白で、これらは移動の中継地として機能する空間であり、目的地に到着するまでの間に立ち寄る商業施設なのである。1930年代には、そのころちょうど黄金期を迎えていた映画産業がロードサイドに進出して、ドライブインシアターを出現させている。しかし他のどんな産業にも増して、こうしたモータリゼーションによって生まれた新たな市場をロードサイド・エンパイアーズと呼ばれるまでの一大ビジネスモデルに発展させたのは、外食産業であった。<br />
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<div class="leftbox"><br />
<a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/1/20070817-interchange.jpg">ロサンゼルスのインターチェンジ</a><br />
ロサンゼルスのインターチェンジ<br />
</div><br />
アメリカのマクドナルド兄弟は、50年代に自分たちの店のサービスすべてをマニュアル化し、生産の過程をちょうど自動車を作るのと同じようなベルトコンベア的に整理することで全世界規模のチェーン展開に成功した。ハンバーガーだけでなく、フライドチキンやドーナツ、アイスクリーム、ピザにしても同様で、いつでもどこでも一定した同じ品質でおなじみのメニューを提供してくれる。このような産業構造が、すべて高速交通網をした流通形態あってのものであることは言うまでもない。ロードサイドやインターチェンジ、ジャンクション近くの商業施設は、私たちの郊外での生活を保障し、奨励している。アメリカの場合、毎朝の郊外から都市への通勤を可能にしているのは高速道路なのである。こうしてロサンゼルスなどでは、生活に必要な機能が一定の空間に集中することでできたはずの都市部が、いまや自動車なしでは生活することができない場所と化している。こうした状況の背景には、もちろん産業社会が速度技術を利用して大量消費の時代をお膳立てしたという事実がある。しかし一方で、生活にそのような速度と均質さを求め、受け入れたのがほかならぬ私たちなのだということも忘れてはならない。<br />
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このようにモータリゼーションの動きがそれまでにない新たな消費文化を築いた事実は、同じく高度の経済成長を果たした私たち日本人もよく知っていることだ。国道沿いに店鋪を構え駐車場を備えたファミリーレストランは、自動車に乗る人々がお腹をすかせてやってくるのを待っていれば集客に困ることなどない。冷蔵トラックが材料を運んできて、自家用車がお客を運んできて、あとはおなじみのメニューを提供するだけというわけだ。この場合、各店鋪は周囲100ほどの同じ系列店鋪単位でまかなわれている。というのも、それらは交通網を前提とした流通体制にとっては店舗がひとつだろうと100あろうと大した違いはないのだ。それどころかひとつのグループとして一括して管理・運営しなければ、顧客の求めるサービスにこたえられず、磨きぬかれた速度の力を発揮できないのだ。<br />
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これと似たような方法で、一介の地方の服飾衣料店が生産・流通・販売までを自社で賄い、合理化、多店鋪経営を徹底させて成功している事実は広く知られている。この企業が同じノーブランドの商品を大量生産しながらも、ユニクロ（unique clothing）という商標を掲げているのは奇妙な話である。私たちは大量の宣伝広告を見るにつけ、このノーブランドのサービスが現代の速度技術によって「きちんと管理された」「安心できる」ものであるということを刷り込まれている。<br />
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また、特に郊外住宅地のホームセンターなどは広い敷地面積と豊富な品揃えを武器に、周辺の住民を呼び集めている。ショッピングモールやアウトレットモールは、それまでならよほどの都市部でしか実現しなかったような規模の複合商業施設で、経済成長を背景に住宅地が市街化する現象を上回るような速度で文化の郊外化を先取りし、促進している。<br />
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こういった、速度技術によって流通し管理されている一定水準の商業活動は、同時に均質的な文化事業でもある。経済的に発展した国だけでなく世界中のほとんどの国が、ある意味で画一化、あるいはアメリカ化している。すなわち「コーラ、ハンバーガー、ジーンズ」の文化あるいは＜マクドナルダイゼーション＞や＜ディズニーランダイゼーション＞といった表現で形容されるような、消費社会の目に見えぬグローバル・スタンダードによって、私たちの日常は侵食されている。<br />
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<div class="leftbox"><a href="http://taichistereo.net/sotsuron/media/1/20070817-mac.jpg">トレイシート（日本マクドナルド株式会社）</a></div><br />
「牧場から、お手元まで」の流通における一貫した品質管理を親しみやすく図示するトレイシート（<i>日本マクドナルド株式会社</i>）<br />
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]]></description>
 <category>General</category>
<comments>http://taichistereo.net/sotsuron/?itemid=10</comments>
 <pubDate>Fri, 10 Aug 2007 00:48:00 +0900</pubDate>
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