「ミッフィーちゃん理論」

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01. 他者としてのミッフィー (03/06/06)
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「ミッフィーちゃん理論」


はじめに (03/06/06)
ミッフィーちゃんは いつも、どこかさびしげ。
でも、明るく生き生きと暮らす、かわいいうさぎ。。。


01. 他者としてのミッフィー (03/06/06)

唐突ではあるが、私は今日から、<他者>のことを<ミッフィーちゃん>と呼ぶことにしたいと思う。他者に関するミッフィー的再定義、あるいはミッフィー理論というものについて、私は考えている。

急にこんなことを言い出せば、単に奇をてらっただけのアイデアのように思われる向きもあろうが、実のところこれは非常に素朴な、実践への糸口なのである。

ミッフィーちゃん理論に従えば、私の周りにはいろいろなうさぎちゃんがいることは容易に想像がつく。例としてメディア計画研究室関係のうさぎを取り上げるなら、センパイのTミッフィーとかMミッフィーとか、同級のTミッフィーとかOミッフィーとか、甘木市からきたGミッフィーとか、2羽のSミッフィーとかがいて、卒業以来Yミッフィーには会ってないなぁー、というわけだ。

これらのうさぎたちは<ミッフィーちゃん>すなわち総体としての<他者>の、物理的なあらわれ あるいはバリエーションであると言える。そこで、現実に存在するそれぞれの個性的なミッフィーちゃんに対し、総体としてのミッフィーちゃんのことをここではひとまず<純粋ミッフィー>と呼ぶことにしよう。

思考実験における<純粋ミッフィー>の存在意義とは、コミュニケーションについてのシミュレーション性にある。つまり、<他者>と対話する前に<純粋ミッフィー>に語りかけることで、誤配もありうる郵便的コミュニケーションの「スキル」を獲得するということであり、私から失われてしまった片割れとしての<他者>を取り戻すリハビリテーションを企図することなのである。

コミュニケーションについてのシミュレーション、言い換えるならそれは、データベース的コミュニケーション、シミュラークルとしての「私」と「あなた」である。データベースあるいはシミュラークルの並列性の只中において<純粋ミッフィー>は生成されるのだ。

するとここで<純粋ミッフィー>はそれぞれの個性的ミッフィーちゃんの存在可能性を一括りに抽象化した概念であると同時に、私によって架空の対話者として捏造された、他者の役割を担った私の中のもう一匹の私、すなわち<客観ミッフィー>であることがわかる。

この、私の中において生成される<客観ミッフィー>とは、斎藤環がマクルーハン理論を援用した構図に則して考えたときに想像しうる、無表情ゆえにこちら側からの参与性の高い「クールな」ミッフィーちゃん、すなわち<冷静ミッフィー>と近似するはずだ。

対して、純粋ミッフィーちゃんにお話きいてよ、とねだる私というのは<情熱系ミッフィー>であるということができるだろう。ここにおいて、「クールなミッフィーと、ホットなミッフィー」というまさにマクルーハン的なメディア論を反映した主客の対置が議論の壇上にあげられることとなる。


02. (つづく)


 
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