「名前のない問題」

PAUSE about "The Problem that Has No Name"



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「名前のない問題」


01.名前のない問題 (03/09/06)

当該サイトにおいて扱われる<名前のない問題>(The Problem that Has No Name)という述語は、Betty Friedanの著したテクストに由来する。しかし私は、時代的・政治的・社会的な立場を限定せず、より広範な対話に対応しうるような普遍的観念としてこの述語にほんの緩い定義を付与しているに過ぎない。
明確な呼称のない問題のことを<名前のない問題>と呼ぶという名づけの試みは、この問題が「問題」として掲げられた意味において限定的・細分的であり「名前がない」という意味において暫定的・統合的であるという、大きな、それでいて控えめな思慮の枠組みを準備する。この第一の命名作業に端を発し、以下の項目に分節化された一連の手続きを通して、私たちの眼前を飛び交う 不可視的なものたち や 過視的なものたち の、実体そのものには触れられなくとも、それらが空に残す痕跡ぐらいならば視野に収めることが出来るのではないか。





02.<スロー>という仮説 (03/05/18)


ここに示されるのはいくつかの仮説。これらは互いに、確からしさの度合い、論証可能性、伝達に要する論述の規模、鍵概念が背景に負った専門分野といった面において異なる種類のものになるはずだ。そのようにさまざまな位相のコンテクストが混在することにより、このプログラムは必然的に主題の理解を阻害しかねない煩雑さを抱え込むことになるだろう。しかし、私の想定しうる主題というのは、まさにこのような方法によってのみ捕捉しうるのである。

私たち、いや少なくとも私個人の社会生活は、ありとあらゆる種類の障壁によって分断され、全体を見渡すことなど出来ないよう磔刑の憂き目にさらされている。そしてその断絶を取り繕おうとして、多くの人々が<笑い>という同調のメタ・コミュニケーションを必須のものとして励行しているのは言うまでもない。しかしそこで私は考えるのだ。「なぜこんなにも、生きることは不可能なのか?」決定的な違和感に悩まされてきたという記憶の糸を手繰り寄せるのだ。

「理論を徹底的にその身に叩き込め。そしてそこからはずれろ。」これがかのデューク・エリントンを伝説のブルース・マンたらしめた言葉だという。ならば今ここで最大の敬意を払われるべき論理性とは何か?それこそが現在まで脈々と培われてきた人知の集積であると言えよう。たとえそれが男性中心・西洋中心・経済効率優先といった具合に排他的で浅ましいものであったとしても、私はいずれそこからはずれることが出来る。なぜなら私は、決してマジョリティのコミュケーションにプラグすることの出来なかったアンプラグド=逸脱者であるからだ。逸脱者は本来的にはずれている。そして、同じくはずれている者のことを想うことが出来るだろう。

いかに困難であろうとも、この違和感を自分のものとする。それが本質的に他者として外在するものであったとしても、私は戦略的に自他を混同するというスタンスに立脚することにより、論述的超越性をもってそれを処する。資本社会(*1)とアカデミズムに接近(プラグ)する試み、これが私の戦略の第一である。たとえその歩みがグズでのろまな亀のごとく遅くとも、私は決してあきらめない。そのような意味を込めて私は、当該方法論を<Slow Program>と呼ぶ。



*1 : より正確には、資本社会への積極的な参加という方法論は労働というかたちで実践される。そのため、<Slow Program>と呼ばれるもののうちの大半が、このWebはもちろん文字というかたちにもならないまま当面のあいだ進行していくことになる。しかしそのような経験的な知にしてもいずれはこの論述のために動員されることになるということは予告しておく。




03.(つづく)


 
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