「現代的スポ根」マンガ論 - (講義「作品研究」前期への提出レポート)
- Posted by: taichistereo • 31 July, 2007
1.スポ根と「ピンポン」(その1)
松本大洋の「ピンポン」(全5巻・小学館)というマンガは、「スポ根」についての言及が含まれるスポーツ漫画であった。「ペコ」こと勝手気ままな星野裕と、「スマイル」こと笑わない月本誠の、高校生卓球の物語である本作は松本大洋の作品の中ではもっとも一般的な読者へのアプローチを意識していた作品だろう。
ここでは松本大洋や他の漫画家たちの作家論に陥ることないよう注意して、ただ「ピンポン」という作品の考察を通した「スポ根もの」の現代的なありかたについてのみ論じるようにしたい。
2.<強さのインフレ>
講談社から始まるスポ根マンガがそうであるように、「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載された数々のヒット作もまた一時代を築いたマンガである。その少年ジャンプの黄金時代を支えた作品のうち最も重要な作品の一つに、鳥山明の「ドラゴンボール」が挙げられる。この作品は、かつてのスポ根マンガが現在のマンガに残した思念を考える上でのカギを握る作品でもある。
どんな願いもかなえてくれるというドラゴンボールをめぐった冒険の物語として始まった「ドラゴンボール」は、次第に、主人公・孫悟空の戦士としての成長のドラマを強調して、世界一強い人間を決める<天下一武闘会>や恐怖の大魔王ピッコロとの闘いから、果ては宇宙から襲来する戦闘種族サイヤ人との死闘などといった具合に、格闘マンガとして発展していく。しかしこのマンガが幾多の主人公成長型の格闘マンガと比べて特異な点は、人知をはるかに超えて際限なく強くなっていく孫悟空と途切れることなくやってくる強敵との間に繰り広げられる毎回の戦闘の<強さの度合い>の飛躍的な増大である。鳥山明は非常に優秀な作家であるにもかかわらず、<強さの度合い>が右肩上がりを続け読者の関心が高まる一方で、とうとうマンガの表現がそれについていくことができなくなってしまうという事態を迎えることになる。具体的な身体描写はもとよりその他のあらゆる表象も出尽くしてしまったのだ。このことを指して竹熊健太郎氏は、<強さのインフレ>と表現している。インフレの後の「ドラゴンボール」ワールド再生措置として作者は、彼本来の持ち味であるキャラクター造形の巧みさを生かした信頼に足るクオリティの安心できる戦闘マンガとしてのリスタートを選んだ。このような奇妙な位相のマンガは確かにそれまでと異なる意味で面白かったのだが、やはり祭りのあとののどかさ(静けさではない)は少なからずその闘いが永遠に続かないことを意味していたのではないか。高森朝雄(梶原一騎の本名)の「明日のジョー」以来続く主人公成長型の格闘マンガは、ここで一つの終着点にたどり着いたのだといえよう。
しかし、もう一つのジャンプ黄金時代の作品が、スポ根マンガの新たな金字塔を打ち立てることになる。井上雄彦の「スラムダンク」は、近年まれに見る正統派スポーツマンガであった。始めは、好きな女の子がマネージャーを務めるバスケットボール部に入部した不良高校生の姿を半ばギャグマンガ的に描いていたが、最終巻では、最強の敵・山王工業との試合での湘北高校バスケ部の逆転劇を、数十ページにもわたって吹き出しを一切用いずに描写するまでに至る。魅力的なキャラクターたちがまだまだ控えていたのにもかかわらず、「第一部・完」として唐突に完結させることで、少年ジャンプ的<強さのインフレ>を最も稚拙な形ではあるが作者自身によって回避した(事後的な深読みにすぎないかもしれないが)。それはまた、「ドラゴンボール」の場合とはちょうど逆に、高校生活という感覚的に短い時間を普遍的な切なさ(刹那さ?)として扱うということでもあったのだ。
3.時間の流れ
もともと「スラムダンク」というマンガは表現力豊かで、特に、試合中の各選手の心理状態や個人的バックグラウンド、対する相手との沈黙の語り合い(実際しゃべっている場合でも、なにより各ゲームにおいてのみ発生する言外に含む意味が重要なのだ)は躍動する身体とともに見るものを圧倒したものだ。そしてこの饒舌の結果として、試合中の時間の流れは尋常ではないほど遅かった。一週間の掲載ページで時間が10秒ほどしか進まないなどというのはザラにある。
かつて隆盛を極めたいわゆるスポ根漫画には、別の意味で時間の流れがもっと遅いものも少なくなかった。私の記憶する限りでは、「明日のジョー」ではなかなかスポーツとしてのボクシングは出てこず矢吹丈はひたすらドヤ街をブラブラしていた。このときに繰り広げられるケンカが、拳キチ・丹下段平の飽くなき説得を経ることでボクシングへと発展するわけだが、それにはかなりの時間を要した。また「ドカベン」の山田太郎は一向に野球を始めず、あろうことか数巻にもわたって柔道部で汗を流し続けるのだ。
一方で、「ピンポン」は、早い。冒頭からまるで試合中であるかのような一種の緊張感をもって始まり、ひたすら卓球と人物との関係が追いかけられていく。試合中の描写は緻密と言うよりもむしろ象徴的で、時間経過がすっ飛ばされていて、早い。
また、最大の敵・海王学園は第一巻から登場する。全五巻という作品のボリュームから言えば当然なのだろうし、この短さは最終回のなんだかあっけない終わり方ともあいまって不満を感じないでもない。少なくとも「スラムダンク」のボリュームを知っているので、それと比べるとどうしても頼りなく感じられる。しかしそれでも「ピンポン」が頭に残って離れない作品であるのは、そこに断片的なイメージの鮮烈さ、瞬間的なマンガのセンス・オブ・ワンダー(おそらくSFに関して使われていた言葉ではなかったかと記憶している。「AKIRA」で有名な大友克洋は新進マンガ家・黒田硫黄に対して「キャラクターやエロに隷属された漫画界にあって、真にセンス・オブ・ワンダーを持った作家である」としてこの言葉を用いている。)を認識できたからだろう。とまれ、一見すると「ピンポン」の早さと「スラムダンク」の遅さが目に付くが、本当はどちらが早いとも遅いとも言いきれるものではないということだけは肝に銘じておかなくてはならないだろう。高校時代やスポーツというもの自体が、主観的な速度で、主観的な認識しか出来ないし、両作品とも選手としての生活とそれ以外の生活、言い換えるなら試合中の時間とそれ以外の時間の区別をあいまいにしているので時間はひたすら感覚的なものとなっているからだ。つまり、もともと実時間と言う文体を持たないマンガにおいて、マンガらしさを体現していると考えられる。
4.画の表現
松本大洋が描くミリペンの均一でくねくねした線は、ひさうちみちおの冷たい線や、当然のことながら大勢の松本大洋フォロワーたちの線を思い起こさせる。しかしもっとも私が重きを置くのは、多田由美の線のイメージである。80年代に登場して以来「放蕩息子」「お陽様なんか出なくてもかまわない」などで知られる多田由美において、人物や風景はコマの内外を問わず静止しているし、フレーミングは非常に映画/写真的だ。あるいは、絵画を想起させると言ってもいい。また、アメリカを舞台にアメリカ人を登場人物にしていることも彼女のマンガの特徴である。もちろんネームはほとんど日本語である。読むのが日本人だから当然だ。日本人のマンガ家がアメリカらしいアメリカを描き、日本人の読者が読む。そこにあるのは80年代的アメリカかぶれとも見られるような倒錯したイメージである。(ホモセクシャルの美男子をよく登場させることからも以前の少女マンガの倒錯を見て取れる。)多田由美以降、と言うわけではないだろうが、このような傾向をもつ新しいマンガは、スーパーフラットなジャパニーズアート(たとえば、奈良美智や村上隆など)とまさに地続きだ。 また、細い線の作家で忘れてはならないのが大友克洋である。「AKIRA」(全6巻・講談社)のそれまでのマンガとは桁違いの線の多さが、以降のマンガ(そしてアニメ)の表現を変えてしまったとは良く言われることだ。マンガの写実的なスペクタクル表現は「AKIRA」において極まったと言えるからだ。またそこに我々は、映画(特に米・ハリウッド映画)と最も接近したマンガの姿も見ることも可能だ。では、「AKIRA」はマンガをどう変えたというのだろうか?
松本大洋のマンガの場合、「AKIRA」の黒い画面を踏襲したマンガが市場を賑わす一方で、白い画面において奔放な線が求められている。岡崎京子をはじめとするこれらいわゆる片仮名の”マンガ”がサブ・カルチャー的な新しさを持って迎えられることで、マンガ独自の表現の可能性が広く示されるようになってきたと言える。そのような意味で、人気マンガ誌・週刊ビッグコミックスピリッツで連載された「ピンポン」は作者の独特の作風がすでに一部の読者だけの持ち物ではないということを証明している。
ここで、梶原一騎のマンガは、劇画であったことを思い出そう。松本大洋のマンガは劇画と言い難い。しかし、劇画の表現がスポ根マンガを規定し、今のマンガもその波のあとにあるのは間違いない。なにしろ、マンガの神様・手塚治虫も劇画的表現を取り入れたくらいの波の大きさだ。
岡崎京子なきあと(?)ガールズコミック界を牽引する安野モヨコ(「ハッピーマニア」「ラブマスターX」など)や、月刊マーガレット(集英社)の少女漫画家としてデビューし今や週刊ヤングジャンプ(同じく集英社)のお抱え作家となったきたがわ翔は、明らかに多田由美のマンガの影響下にある。そこに並列させうる作家として、松本大洋を挙げられないだろうか。安野モヨコの描く人物の眼、きたがわ翔の描く人物の手や首、そして松本大洋の時間感覚、構図、コントラストの強い画、これらはみな多田由美的な表現にちがいないように思われる。
たとえば「ピンポン」などは劇画の黒さ、スポ根の暑苦しさから開放された、涼しい画面だ。
その涼しさは時として冷たいブルーのような感覚を与えるが、人情ものがある温もりを伴って悲劇たり得るように、私たちは「ピンポン」のブルーに、イエロー、つまり幸福感や外向的な態度を補完しているはずである。(そのことはいびつな線、いびつなキャラクターとして実際成立している。)これこそまさに現代的な日本人の感覚に即していると言えないだろうか。
5.スポ根と「ピンポン」(その2)
昨年の文化庁芸術祭「Robot-ism」内で行われたシンポジウムで富野喜悠季氏が「人型のロボットに我々は容易に感情移入することができる」ということをおっしゃっていた。このことばは「起動戦士ガンダム」の人気獲得への考察や策略を超えて、アニメやテレビゲームまたはそれ以外のプロダクトにおける<キャラクター>というものの性格を言外に含んでいるものと考えられる。
テレビアニメ版の「サザエさん」や「ドラえもん」の例を挙げるまでもなく、<キャラクター>のいる世界は永遠性を伴って成立しているように見える。子供向けの<キャラクター>の世界がほぼそうであるのは、ある程度年端のいった人間においては「日常=繰り返し=単純で退屈」が成り立ち、何かにつけて一回性に期待する(「何かいいことないかな」とはまさにこの感覚の表れである。)のに対し、子供において繰り返しは多様性であると考えられるからかも知れない。
スポ根ものは、練習と試合の繰り返しの先には勝利や理想といった目標があり、その「汗と涙の」一本道が、読者に人生の様々なブルーな暗い側面を見せるような乱反射を起こす。「ピンポン」は最初に記したようにスポ根への言及が含まれるスポ根マンガである。いわゆるスポ根黄金時代が去ってしまった後に描かれたスポ根マンガは、内容に優劣の差こそあれ、なべてそういう色彩をある程度は持っていると言えるだろう。しかし「ピンポン」で特筆すべきなのは<ヒーロー>と<才能>という問題だ。おそらく多くの人が、今これらの言葉を目にしたら、ヒーローや才能のある人でなくヒーローになれない人、才能のない人をイメージするのではないか?我々の思慮(錯覚)はブルーな方へと向かいやすくできている(とくに青少年層の場合)。日常のブルーが時に私たちを飲み込まんとするほどのものなのに、それでもスポ根の物語は溢れ出していて、読者には止められない。そういうマンガなのだ、これは。いささか感情に任せて述べているように思われるかもしれないが、実際「僕の血は鉄の味がする!」というようなセリフが飛び交うトーンのマンガなのだから仕方がない。
「ピンポン」では主役の二人でさえ(冒頭から「ペコはやんちゃでスマイルはクール」という設定が明らかにされるものの、)いまいち確固としたキャラクター性に欠ける。それはある意味歪んだ人物形成とも言えるような、人間の表層と内面の不可分な関係が描かれているからだ。この作品でのキャラクターたちは感情移入の対象としてのキャラクターではなく、むしろページをめくって会いに行く、個性(友達?)なのだ。
また、主人公と同世代の女の子がほとんど出てこないのも重要だ。松本大洋と言えば、「鉄コン筋クリート」も男の子二人が主人公だ。これは、いまや「ボクとキミがいればどこまでも行ける」的なロマンティシズムの幻想は成立せず、「オレたち二匹は無敵」的なポジティビィティがものを言うという自体をあらわすものなのだろうか。否、二人と二匹の間には、歴然の差がある。それは、自分という存在が悩める「一人」でさえなく、オプティミズムを排除したあとに残る「一匹」としてここにあるという認識の差だ。これは黄金時代のスポ根と比べてみても有効な考えだろう。「ピンポン」における「飛ぶ」あるいは「飛べる」などといった言葉は抽象的で、かつてのスポ根よりも現実離れしていそうだが、高校生ペコとスマイルの断片的な感情を隠さず表現すリアルな表現であるのだ。
「現代的な」マンガは、その時代において単純とも複雑とも言えるような背景を持ち、また単純とも複雑とも言えるような構造も持っている。「ピンポン」の人物関係やプロットはかつてのスポ根マンガと同じように単純であるのと同時に、複雑でもあるのだ。
6.現代的スポ根マンガ
私は「ピンポン」と同時期に同じ週刊ビッグコミックスピリッツで連載された、「月下の棋士」(能條純一・連載中)がスポ根の正統後継者たるマンガであると考える。テーブルゲームをモチーフにしたマンガのなかでも人間の狂気や時の流れの中で形作られた歪みといった領域まで踏み込んで人間を描けている作品は他にはないし、エロ劇画雑誌上の作品、そして麻雀漫画「なきの龍」などで実力を培ってきた作者が劇画の素養をすてることなくスピリッツで連載する本作品は、テレビドラマ化もなされた。能條のマンガでは、主人公は始めから力を持っている。あからさまな成長物語ではないものの、主人公の見る世界が次第に深まっていき、将棋と主人公が絶対に切り離せない宿命のようなものを感じさせるという点では伝統的なスポ根と一致している。
(2000年)
松本大洋の「ピンポン」(全5巻・小学館)というマンガは、「スポ根」についての言及が含まれるスポーツ漫画であった。「ペコ」こと勝手気ままな星野裕と、「スマイル」こと笑わない月本誠の、高校生卓球の物語である本作は松本大洋の作品の中ではもっとも一般的な読者へのアプローチを意識していた作品だろう。
ここでは松本大洋や他の漫画家たちの作家論に陥ることないよう注意して、ただ「ピンポン」という作品の考察を通した「スポ根もの」の現代的なありかたについてのみ論じるようにしたい。
2.<強さのインフレ>
講談社から始まるスポ根マンガがそうであるように、「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載された数々のヒット作もまた一時代を築いたマンガである。その少年ジャンプの黄金時代を支えた作品のうち最も重要な作品の一つに、鳥山明の「ドラゴンボール」が挙げられる。この作品は、かつてのスポ根マンガが現在のマンガに残した思念を考える上でのカギを握る作品でもある。
どんな願いもかなえてくれるというドラゴンボールをめぐった冒険の物語として始まった「ドラゴンボール」は、次第に、主人公・孫悟空の戦士としての成長のドラマを強調して、世界一強い人間を決める<天下一武闘会>や恐怖の大魔王ピッコロとの闘いから、果ては宇宙から襲来する戦闘種族サイヤ人との死闘などといった具合に、格闘マンガとして発展していく。しかしこのマンガが幾多の主人公成長型の格闘マンガと比べて特異な点は、人知をはるかに超えて際限なく強くなっていく孫悟空と途切れることなくやってくる強敵との間に繰り広げられる毎回の戦闘の<強さの度合い>の飛躍的な増大である。鳥山明は非常に優秀な作家であるにもかかわらず、<強さの度合い>が右肩上がりを続け読者の関心が高まる一方で、とうとうマンガの表現がそれについていくことができなくなってしまうという事態を迎えることになる。具体的な身体描写はもとよりその他のあらゆる表象も出尽くしてしまったのだ。このことを指して竹熊健太郎氏は、<強さのインフレ>と表現している。インフレの後の「ドラゴンボール」ワールド再生措置として作者は、彼本来の持ち味であるキャラクター造形の巧みさを生かした信頼に足るクオリティの安心できる戦闘マンガとしてのリスタートを選んだ。このような奇妙な位相のマンガは確かにそれまでと異なる意味で面白かったのだが、やはり祭りのあとののどかさ(静けさではない)は少なからずその闘いが永遠に続かないことを意味していたのではないか。高森朝雄(梶原一騎の本名)の「明日のジョー」以来続く主人公成長型の格闘マンガは、ここで一つの終着点にたどり着いたのだといえよう。
しかし、もう一つのジャンプ黄金時代の作品が、スポ根マンガの新たな金字塔を打ち立てることになる。井上雄彦の「スラムダンク」は、近年まれに見る正統派スポーツマンガであった。始めは、好きな女の子がマネージャーを務めるバスケットボール部に入部した不良高校生の姿を半ばギャグマンガ的に描いていたが、最終巻では、最強の敵・山王工業との試合での湘北高校バスケ部の逆転劇を、数十ページにもわたって吹き出しを一切用いずに描写するまでに至る。魅力的なキャラクターたちがまだまだ控えていたのにもかかわらず、「第一部・完」として唐突に完結させることで、少年ジャンプ的<強さのインフレ>を最も稚拙な形ではあるが作者自身によって回避した(事後的な深読みにすぎないかもしれないが)。それはまた、「ドラゴンボール」の場合とはちょうど逆に、高校生活という感覚的に短い時間を普遍的な切なさ(刹那さ?)として扱うということでもあったのだ。
3.時間の流れ
もともと「スラムダンク」というマンガは表現力豊かで、特に、試合中の各選手の心理状態や個人的バックグラウンド、対する相手との沈黙の語り合い(実際しゃべっている場合でも、なにより各ゲームにおいてのみ発生する言外に含む意味が重要なのだ)は躍動する身体とともに見るものを圧倒したものだ。そしてこの饒舌の結果として、試合中の時間の流れは尋常ではないほど遅かった。一週間の掲載ページで時間が10秒ほどしか進まないなどというのはザラにある。
かつて隆盛を極めたいわゆるスポ根漫画には、別の意味で時間の流れがもっと遅いものも少なくなかった。私の記憶する限りでは、「明日のジョー」ではなかなかスポーツとしてのボクシングは出てこず矢吹丈はひたすらドヤ街をブラブラしていた。このときに繰り広げられるケンカが、拳キチ・丹下段平の飽くなき説得を経ることでボクシングへと発展するわけだが、それにはかなりの時間を要した。また「ドカベン」の山田太郎は一向に野球を始めず、あろうことか数巻にもわたって柔道部で汗を流し続けるのだ。
一方で、「ピンポン」は、早い。冒頭からまるで試合中であるかのような一種の緊張感をもって始まり、ひたすら卓球と人物との関係が追いかけられていく。試合中の描写は緻密と言うよりもむしろ象徴的で、時間経過がすっ飛ばされていて、早い。
また、最大の敵・海王学園は第一巻から登場する。全五巻という作品のボリュームから言えば当然なのだろうし、この短さは最終回のなんだかあっけない終わり方ともあいまって不満を感じないでもない。少なくとも「スラムダンク」のボリュームを知っているので、それと比べるとどうしても頼りなく感じられる。しかしそれでも「ピンポン」が頭に残って離れない作品であるのは、そこに断片的なイメージの鮮烈さ、瞬間的なマンガのセンス・オブ・ワンダー(おそらくSFに関して使われていた言葉ではなかったかと記憶している。「AKIRA」で有名な大友克洋は新進マンガ家・黒田硫黄に対して「キャラクターやエロに隷属された漫画界にあって、真にセンス・オブ・ワンダーを持った作家である」としてこの言葉を用いている。)を認識できたからだろう。とまれ、一見すると「ピンポン」の早さと「スラムダンク」の遅さが目に付くが、本当はどちらが早いとも遅いとも言いきれるものではないということだけは肝に銘じておかなくてはならないだろう。高校時代やスポーツというもの自体が、主観的な速度で、主観的な認識しか出来ないし、両作品とも選手としての生活とそれ以外の生活、言い換えるなら試合中の時間とそれ以外の時間の区別をあいまいにしているので時間はひたすら感覚的なものとなっているからだ。つまり、もともと実時間と言う文体を持たないマンガにおいて、マンガらしさを体現していると考えられる。
4.画の表現
松本大洋が描くミリペンの均一でくねくねした線は、ひさうちみちおの冷たい線や、当然のことながら大勢の松本大洋フォロワーたちの線を思い起こさせる。しかしもっとも私が重きを置くのは、多田由美の線のイメージである。80年代に登場して以来「放蕩息子」「お陽様なんか出なくてもかまわない」などで知られる多田由美において、人物や風景はコマの内外を問わず静止しているし、フレーミングは非常に映画/写真的だ。あるいは、絵画を想起させると言ってもいい。また、アメリカを舞台にアメリカ人を登場人物にしていることも彼女のマンガの特徴である。もちろんネームはほとんど日本語である。読むのが日本人だから当然だ。日本人のマンガ家がアメリカらしいアメリカを描き、日本人の読者が読む。そこにあるのは80年代的アメリカかぶれとも見られるような倒錯したイメージである。(ホモセクシャルの美男子をよく登場させることからも以前の少女マンガの倒錯を見て取れる。)多田由美以降、と言うわけではないだろうが、このような傾向をもつ新しいマンガは、スーパーフラットなジャパニーズアート(たとえば、奈良美智や村上隆など)とまさに地続きだ。 また、細い線の作家で忘れてはならないのが大友克洋である。「AKIRA」(全6巻・講談社)のそれまでのマンガとは桁違いの線の多さが、以降のマンガ(そしてアニメ)の表現を変えてしまったとは良く言われることだ。マンガの写実的なスペクタクル表現は「AKIRA」において極まったと言えるからだ。またそこに我々は、映画(特に米・ハリウッド映画)と最も接近したマンガの姿も見ることも可能だ。では、「AKIRA」はマンガをどう変えたというのだろうか?
松本大洋のマンガの場合、「AKIRA」の黒い画面を踏襲したマンガが市場を賑わす一方で、白い画面において奔放な線が求められている。岡崎京子をはじめとするこれらいわゆる片仮名の”マンガ”がサブ・カルチャー的な新しさを持って迎えられることで、マンガ独自の表現の可能性が広く示されるようになってきたと言える。そのような意味で、人気マンガ誌・週刊ビッグコミックスピリッツで連載された「ピンポン」は作者の独特の作風がすでに一部の読者だけの持ち物ではないということを証明している。
ここで、梶原一騎のマンガは、劇画であったことを思い出そう。松本大洋のマンガは劇画と言い難い。しかし、劇画の表現がスポ根マンガを規定し、今のマンガもその波のあとにあるのは間違いない。なにしろ、マンガの神様・手塚治虫も劇画的表現を取り入れたくらいの波の大きさだ。
岡崎京子なきあと(?)ガールズコミック界を牽引する安野モヨコ(「ハッピーマニア」「ラブマスターX」など)や、月刊マーガレット(集英社)の少女漫画家としてデビューし今や週刊ヤングジャンプ(同じく集英社)のお抱え作家となったきたがわ翔は、明らかに多田由美のマンガの影響下にある。そこに並列させうる作家として、松本大洋を挙げられないだろうか。安野モヨコの描く人物の眼、きたがわ翔の描く人物の手や首、そして松本大洋の時間感覚、構図、コントラストの強い画、これらはみな多田由美的な表現にちがいないように思われる。
たとえば「ピンポン」などは劇画の黒さ、スポ根の暑苦しさから開放された、涼しい画面だ。
その涼しさは時として冷たいブルーのような感覚を与えるが、人情ものがある温もりを伴って悲劇たり得るように、私たちは「ピンポン」のブルーに、イエロー、つまり幸福感や外向的な態度を補完しているはずである。(そのことはいびつな線、いびつなキャラクターとして実際成立している。)これこそまさに現代的な日本人の感覚に即していると言えないだろうか。
5.スポ根と「ピンポン」(その2)
昨年の文化庁芸術祭「Robot-ism」内で行われたシンポジウムで富野喜悠季氏が「人型のロボットに我々は容易に感情移入することができる」ということをおっしゃっていた。このことばは「起動戦士ガンダム」の人気獲得への考察や策略を超えて、アニメやテレビゲームまたはそれ以外のプロダクトにおける<キャラクター>というものの性格を言外に含んでいるものと考えられる。
テレビアニメ版の「サザエさん」や「ドラえもん」の例を挙げるまでもなく、<キャラクター>のいる世界は永遠性を伴って成立しているように見える。子供向けの<キャラクター>の世界がほぼそうであるのは、ある程度年端のいった人間においては「日常=繰り返し=単純で退屈」が成り立ち、何かにつけて一回性に期待する(「何かいいことないかな」とはまさにこの感覚の表れである。)のに対し、子供において繰り返しは多様性であると考えられるからかも知れない。
スポ根ものは、練習と試合の繰り返しの先には勝利や理想といった目標があり、その「汗と涙の」一本道が、読者に人生の様々なブルーな暗い側面を見せるような乱反射を起こす。「ピンポン」は最初に記したようにスポ根への言及が含まれるスポ根マンガである。いわゆるスポ根黄金時代が去ってしまった後に描かれたスポ根マンガは、内容に優劣の差こそあれ、なべてそういう色彩をある程度は持っていると言えるだろう。しかし「ピンポン」で特筆すべきなのは<ヒーロー>と<才能>という問題だ。おそらく多くの人が、今これらの言葉を目にしたら、ヒーローや才能のある人でなくヒーローになれない人、才能のない人をイメージするのではないか?我々の思慮(錯覚)はブルーな方へと向かいやすくできている(とくに青少年層の場合)。日常のブルーが時に私たちを飲み込まんとするほどのものなのに、それでもスポ根の物語は溢れ出していて、読者には止められない。そういうマンガなのだ、これは。いささか感情に任せて述べているように思われるかもしれないが、実際「僕の血は鉄の味がする!」というようなセリフが飛び交うトーンのマンガなのだから仕方がない。
「ピンポン」では主役の二人でさえ(冒頭から「ペコはやんちゃでスマイルはクール」という設定が明らかにされるものの、)いまいち確固としたキャラクター性に欠ける。それはある意味歪んだ人物形成とも言えるような、人間の表層と内面の不可分な関係が描かれているからだ。この作品でのキャラクターたちは感情移入の対象としてのキャラクターではなく、むしろページをめくって会いに行く、個性(友達?)なのだ。
また、主人公と同世代の女の子がほとんど出てこないのも重要だ。松本大洋と言えば、「鉄コン筋クリート」も男の子二人が主人公だ。これは、いまや「ボクとキミがいればどこまでも行ける」的なロマンティシズムの幻想は成立せず、「オレたち二匹は無敵」的なポジティビィティがものを言うという自体をあらわすものなのだろうか。否、二人と二匹の間には、歴然の差がある。それは、自分という存在が悩める「一人」でさえなく、オプティミズムを排除したあとに残る「一匹」としてここにあるという認識の差だ。これは黄金時代のスポ根と比べてみても有効な考えだろう。「ピンポン」における「飛ぶ」あるいは「飛べる」などといった言葉は抽象的で、かつてのスポ根よりも現実離れしていそうだが、高校生ペコとスマイルの断片的な感情を隠さず表現すリアルな表現であるのだ。
「現代的な」マンガは、その時代において単純とも複雑とも言えるような背景を持ち、また単純とも複雑とも言えるような構造も持っている。「ピンポン」の人物関係やプロットはかつてのスポ根マンガと同じように単純であるのと同時に、複雑でもあるのだ。
6.現代的スポ根マンガ
私は「ピンポン」と同時期に同じ週刊ビッグコミックスピリッツで連載された、「月下の棋士」(能條純一・連載中)がスポ根の正統後継者たるマンガであると考える。テーブルゲームをモチーフにしたマンガのなかでも人間の狂気や時の流れの中で形作られた歪みといった領域まで踏み込んで人間を描けている作品は他にはないし、エロ劇画雑誌上の作品、そして麻雀漫画「なきの龍」などで実力を培ってきた作者が劇画の素養をすてることなくスピリッツで連載する本作品は、テレビドラマ化もなされた。能條のマンガでは、主人公は始めから力を持っている。あからさまな成長物語ではないものの、主人公の見る世界が次第に深まっていき、将棋と主人公が絶対に切り離せない宿命のようなものを感じさせるという点では伝統的なスポ根と一致している。
(2000年)
aizsfv • 30 April, 2009 • 09:53:36