映像において、性的表現はどこまで許されるのか - (講義「作品研究」前期への提出レポート)
- Posted by: taichistereo • 31 July, 2007
1.男性による、映像表現への考察(その1)
「映画によって、言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶんあなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐えつづけることの息苦しさをも知っているに違いない。」
「映画を巡ってつづられる言葉は、長らく、この灰色の自分を納得し、それを正当化する口実にすぎなかった。」
上記の文章は、蓮見重彦氏が編集をされていた映画雑誌「季刊リュミエール」の第一号に掲載された創刊の辞からの抜粋である。これは言うまでもなく、映画の周囲を回り続ける言葉に対する考察だ。
2.男性による、映像表現への考察(その2)
A・ヒッチコック「サイコ」において、浴室でジャネット・リーが殺されるシーンが衝撃をもって迎えられ、天才的映画作家の数ある作品の中でも最も有名なイマージュとなった理由の一つに、映像表現の持つ性的な側面が挙げられると思う。
アパートの一室でのつかの間の情事に我々は、ジャネット・リーの華奢な身体とそれに似つかわしくない豊満な胸を覗き見する。
3.男性による、映像表現への考察(その3)
ところで、いま私たちはビデオというものを通して映画に触れることができる。しかし、「体験する」ことができる映画を前にして、レンタルビデオの便利さに何の意味があろうか。映画と人間の関係を離れて、ビデオになった映画を小さなモニターで見るとき、私たちが単に体験することを逸してしまっただけでなく「良識ある」形而上的思考によって自分が自分以上の存在であるかのように錯覚してしまっていることは明らかである。私たちが現実において生きている限り、完全に静止した安全な地点を手に入れることなどできるはずがないのだ。「映画」はビデオで見るものではない。ビデオはもっと別の何かであるのにちがいない。
4.男性による、映像表現への考察(その4)
「水は上へとび、夜は明るくなければならぬ。人工のいつわりがこの世の真実であらねばならぬ。人の理知は自然の真実のためではなく、偽りの真実の為に、その完全な組み立ての為に、捧げつくされなければならぬ。偽りにまさる真実はこの世にはありえない。なぜなら、偽りのみが、たぶん、退屈ではないから。」
(坂口安吾「恋をしに行く」より)
5.男性による、映像表現への考察(その5)
「語りえぬ事柄については沈黙すべきである。」
(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)
サイレント / 白黒 / 限界 / 沈黙
くだらない男は、しゃべりすぎる。
6.映像において、性的表現はどこまで許されるのか
この問いに対する解答はケースバイケースだと思うので、答えられません。
かといって、ある作品における映像表現を取り上げてみても、私には、有効な言葉が明確に示せるとも思いません。
たとえば、解答に際して映像の限界を示すことが必要ならば、それは映像の内側からなされるべきで、本来レポートでは無理なのかもしれません。ケースバイケースとはその意味です。
また、それは私にそれだけの言葉を操る能力や知識の引出しがないだけのことなのかもしれません。
道徳・倫理的な問題を離れて「性的表現はどこまで許されるのか」と考えることは、今の私には出来ません。とりあえず、このことを説明するために、関係すると思われるような引用などを連ねることにしました。
(2000年)
「映画によって、言葉を根こそぎ奪われた瞬間の無上の甘美さをたぶんあなたは知っているだろう。そして、その沈黙にいつまでも耐えつづけることの息苦しさをも知っているに違いない。」
「映画を巡ってつづられる言葉は、長らく、この灰色の自分を納得し、それを正当化する口実にすぎなかった。」
上記の文章は、蓮見重彦氏が編集をされていた映画雑誌「季刊リュミエール」の第一号に掲載された創刊の辞からの抜粋である。これは言うまでもなく、映画の周囲を回り続ける言葉に対する考察だ。
2.男性による、映像表現への考察(その2)
A・ヒッチコック「サイコ」において、浴室でジャネット・リーが殺されるシーンが衝撃をもって迎えられ、天才的映画作家の数ある作品の中でも最も有名なイマージュとなった理由の一つに、映像表現の持つ性的な側面が挙げられると思う。
アパートの一室でのつかの間の情事に我々は、ジャネット・リーの華奢な身体とそれに似つかわしくない豊満な胸を覗き見する。
3.男性による、映像表現への考察(その3)
ところで、いま私たちはビデオというものを通して映画に触れることができる。しかし、「体験する」ことができる映画を前にして、レンタルビデオの便利さに何の意味があろうか。映画と人間の関係を離れて、ビデオになった映画を小さなモニターで見るとき、私たちが単に体験することを逸してしまっただけでなく「良識ある」形而上的思考によって自分が自分以上の存在であるかのように錯覚してしまっていることは明らかである。私たちが現実において生きている限り、完全に静止した安全な地点を手に入れることなどできるはずがないのだ。「映画」はビデオで見るものではない。ビデオはもっと別の何かであるのにちがいない。
4.男性による、映像表現への考察(その4)
「水は上へとび、夜は明るくなければならぬ。人工のいつわりがこの世の真実であらねばならぬ。人の理知は自然の真実のためではなく、偽りの真実の為に、その完全な組み立ての為に、捧げつくされなければならぬ。偽りにまさる真実はこの世にはありえない。なぜなら、偽りのみが、たぶん、退屈ではないから。」
(坂口安吾「恋をしに行く」より)
5.男性による、映像表現への考察(その5)
「語りえぬ事柄については沈黙すべきである。」
(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)
サイレント / 白黒 / 限界 / 沈黙
くだらない男は、しゃべりすぎる。
6.映像において、性的表現はどこまで許されるのか
この問いに対する解答はケースバイケースだと思うので、答えられません。
かといって、ある作品における映像表現を取り上げてみても、私には、有効な言葉が明確に示せるとも思いません。
たとえば、解答に際して映像の限界を示すことが必要ならば、それは映像の内側からなされるべきで、本来レポートでは無理なのかもしれません。ケースバイケースとはその意味です。
また、それは私にそれだけの言葉を操る能力や知識の引出しがないだけのことなのかもしれません。
道徳・倫理的な問題を離れて「性的表現はどこまで許されるのか」と考えることは、今の私には出来ません。とりあえず、このことを説明するために、関係すると思われるような引用などを連ねることにしました。
(2000年)
aizsfv • 30 April, 2009 • 09:54:01