「読む」ということ - (メディア計画研究室 課題「BOOK」 提出レポート)
- Posted by: taichistereo • 31 July, 2007
1.奇妙な感覚
私は、このレポートに関して調べものをし、足を使って移動をするうちに、いくつかの奇妙な感覚を経験した。本の置いてある(らしい)ところへ遊びに行くような気分で青山・表参道周辺の洋書店やアートスポットを巡っていた私は、街全体がまるで遊園地か何かであるように感じていた。これのどこが奇妙だったのかというと、特に目的の本があるわけではなく、街の中にある本から本へ、書棚から書棚へと、その狭間を漂っているような心地は、本を読んでいるときの文字の中を泳いでいるような感覚を呼び起こしたのである。
また、本を読むという行為に関する書物を求めて図書館へ行った時には、自らが一種のトートロジーを体現してしまっているかのように感じた。つまり、本を「読む」という行為について考える手がかりを求めて、本に記されていることを読んだのであるが、そのときの私はというと読書という行為がいかなるものか満足な説明がなくとも読書しつづけていたのだ。
かなりの自覚を伴って、本について、あるいは読むということについて考えながら本を読むということ、そしていつも目的の書架の横には図書館について記された本(図書館学)が並んでいることは、私の思考と行動が一致とも不一致ともつかない奇妙な堂々巡りのなかにあるように感じさせた。 果たしてこれらの感覚は、単に本が我々にとって極めて身近な存在であるということだけから生まれてきたものなのだろうか?
2.読むことの歴史
アルベルト・マングェルの「読書の歴史」を読むと、西洋において読書は社会/共同体的な読書から個人的、独創的な読書へという大きな流れを持っていることを窺い知ることができる。書物を思索の支柱にし、賢者の言葉のように書物の言葉を信じるという読書のありかたから、書物から引き出した内容と記憶の中のテクストとを結びつけて読者自身の新たなテキストを作り出すような読書へのゆるやかな変化は、朗読から黙読へという読書の方法そのものの移行とも密接に関係している。またこのことは、15世紀後半の活版印刷技術の登場と関連して、少数集中型の読書から拡散型の読書へという変化の側面も持っている。
今日の我々の読書は、決して古くから当然とされてきたものではなく、比較的新しい読書の方法なのであり、そして今も変化の中にあるのだと言える。これは近年の電子出版や電子本への関心が逆に従来的な書物への関心を高めている状況からも明らかだ。我々の読書の方法や本との付き合い方は、文字の読み書きがそうであるように、教育によって培われたものである。
写本・音読時代の読書は、黙読によるテキスト同士、あるいは注釈や索引とのあいだの分析的な関係のまさに目に見えてわかる増加、活版印刷技術による本の絶対数の飛躍的な増加などの結果、多くの書物(多くの読書)の関連を読み進め、また関連を読者自身が生み出していく創造的な読書へと変容する。この「新しい」読書こそ、今日の我々の読書に通じるものである。この読書の最も大きな特徴は、終わりがないというところにある。いや、たしかに伝統的な読書にも終わりはなかっただろう。しかし、今日の読者はどれだけ大量の本を読んだところで、過去の読書家のようには満足できないだろう。我々が読む書物は、信じるべき賢者の言葉でもなければ、知の巨人がつくる大きな建築物でもなくなってきている。いまや読書とは、読みつづけるということなのだといえるだろう。
同書には、筆者がタルムード研究者の次のような言葉を引用している箇所がある。「たとえ膨大なページ数を熱心な読者が読み進めたところで、自分はまだ、まさに第一ページに至ってはいないのだと言うことを決して忘れてはならない。」この考えによれば、読者は本の「第一ページ」さえ読むことができないまま読みつづけなければならないということになる。
3.ひきつける本
青山・表参道周辺を歩いていたその日、私は韓国人アーティストのカン・アイランの「本の重み 本のあかり」が催されている洋書店NADiFFへ寄った。そこには様々な本の中にまぎれて、カン・アイランの作った青白く発光する本のオブジェが点在していた。青い光は、私たちの精神的なものや思慮のイメージを喚起するかのようで、その「本」のかたちをしたオブジェは私たちを「本」の内側へとひきつけ、同時に外側への広がりを感じさせるように見えた。
しかし、かと言って世界全体があのオブジェに封じ込められているとは思わなかったし、世界のある場所があのオブジェに占有されているとも思えなかった。むしろほかならぬ私自身が、あのオブジェを見て外部へと広がる世界のイメージを生み出したと言えるのではないか。「本」のオブジェの青白い光のうちに、文字の読み書きを覚えてから(あるいはそれよりも前から)今日まで続けられ、どこにいようといつまでも続く終わりのない読書、関連の中にこそ意味を持つ書物を見つめていたとは言えまいか。
室内全体を明るくするのではなく、ただあの本自体をほのかに浮かび上がらせるためだけの光を発していたあの「本」は、「すべての本」を象徴していたように思われる。
書店で私たちの目に止まる本、私たちが布団の上で読んでいる本の背後には、無数の本の影がある。一生の間に読むことのできるのはこれらの無数の本のうちのほんのわずかでしかないが、たとえ数千、数百の書物の読書だとしても、それは無数にある本の関連を読んでいることになろう。図書館や書店で私が経験した奇妙な感覚は、私が今まさに終わりのない読書の最中にあるということの証である。
<参考文献>
「読書の歴史〜あるいは読者の歴史〜」 アルベルト・マングェル 原田範行(訳) 柏書房 1999
「書物から読書へ」 ロジェ・シャルチエ 1992
「本という不思議」 長田弘 みすず書房 1999
私は、このレポートに関して調べものをし、足を使って移動をするうちに、いくつかの奇妙な感覚を経験した。本の置いてある(らしい)ところへ遊びに行くような気分で青山・表参道周辺の洋書店やアートスポットを巡っていた私は、街全体がまるで遊園地か何かであるように感じていた。これのどこが奇妙だったのかというと、特に目的の本があるわけではなく、街の中にある本から本へ、書棚から書棚へと、その狭間を漂っているような心地は、本を読んでいるときの文字の中を泳いでいるような感覚を呼び起こしたのである。
また、本を読むという行為に関する書物を求めて図書館へ行った時には、自らが一種のトートロジーを体現してしまっているかのように感じた。つまり、本を「読む」という行為について考える手がかりを求めて、本に記されていることを読んだのであるが、そのときの私はというと読書という行為がいかなるものか満足な説明がなくとも読書しつづけていたのだ。
かなりの自覚を伴って、本について、あるいは読むということについて考えながら本を読むということ、そしていつも目的の書架の横には図書館について記された本(図書館学)が並んでいることは、私の思考と行動が一致とも不一致ともつかない奇妙な堂々巡りのなかにあるように感じさせた。 果たしてこれらの感覚は、単に本が我々にとって極めて身近な存在であるということだけから生まれてきたものなのだろうか?
2.読むことの歴史
アルベルト・マングェルの「読書の歴史」を読むと、西洋において読書は社会/共同体的な読書から個人的、独創的な読書へという大きな流れを持っていることを窺い知ることができる。書物を思索の支柱にし、賢者の言葉のように書物の言葉を信じるという読書のありかたから、書物から引き出した内容と記憶の中のテクストとを結びつけて読者自身の新たなテキストを作り出すような読書へのゆるやかな変化は、朗読から黙読へという読書の方法そのものの移行とも密接に関係している。またこのことは、15世紀後半の活版印刷技術の登場と関連して、少数集中型の読書から拡散型の読書へという変化の側面も持っている。
今日の我々の読書は、決して古くから当然とされてきたものではなく、比較的新しい読書の方法なのであり、そして今も変化の中にあるのだと言える。これは近年の電子出版や電子本への関心が逆に従来的な書物への関心を高めている状況からも明らかだ。我々の読書の方法や本との付き合い方は、文字の読み書きがそうであるように、教育によって培われたものである。
写本・音読時代の読書は、黙読によるテキスト同士、あるいは注釈や索引とのあいだの分析的な関係のまさに目に見えてわかる増加、活版印刷技術による本の絶対数の飛躍的な増加などの結果、多くの書物(多くの読書)の関連を読み進め、また関連を読者自身が生み出していく創造的な読書へと変容する。この「新しい」読書こそ、今日の我々の読書に通じるものである。この読書の最も大きな特徴は、終わりがないというところにある。いや、たしかに伝統的な読書にも終わりはなかっただろう。しかし、今日の読者はどれだけ大量の本を読んだところで、過去の読書家のようには満足できないだろう。我々が読む書物は、信じるべき賢者の言葉でもなければ、知の巨人がつくる大きな建築物でもなくなってきている。いまや読書とは、読みつづけるということなのだといえるだろう。
同書には、筆者がタルムード研究者の次のような言葉を引用している箇所がある。「たとえ膨大なページ数を熱心な読者が読み進めたところで、自分はまだ、まさに第一ページに至ってはいないのだと言うことを決して忘れてはならない。」この考えによれば、読者は本の「第一ページ」さえ読むことができないまま読みつづけなければならないということになる。
3.ひきつける本
青山・表参道周辺を歩いていたその日、私は韓国人アーティストのカン・アイランの「本の重み 本のあかり」が催されている洋書店NADiFFへ寄った。そこには様々な本の中にまぎれて、カン・アイランの作った青白く発光する本のオブジェが点在していた。青い光は、私たちの精神的なものや思慮のイメージを喚起するかのようで、その「本」のかたちをしたオブジェは私たちを「本」の内側へとひきつけ、同時に外側への広がりを感じさせるように見えた。
しかし、かと言って世界全体があのオブジェに封じ込められているとは思わなかったし、世界のある場所があのオブジェに占有されているとも思えなかった。むしろほかならぬ私自身が、あのオブジェを見て外部へと広がる世界のイメージを生み出したと言えるのではないか。「本」のオブジェの青白い光のうちに、文字の読み書きを覚えてから(あるいはそれよりも前から)今日まで続けられ、どこにいようといつまでも続く終わりのない読書、関連の中にこそ意味を持つ書物を見つめていたとは言えまいか。
室内全体を明るくするのではなく、ただあの本自体をほのかに浮かび上がらせるためだけの光を発していたあの「本」は、「すべての本」を象徴していたように思われる。
書店で私たちの目に止まる本、私たちが布団の上で読んでいる本の背後には、無数の本の影がある。一生の間に読むことのできるのはこれらの無数の本のうちのほんのわずかでしかないが、たとえ数千、数百の書物の読書だとしても、それは無数にある本の関連を読んでいることになろう。図書館や書店で私が経験した奇妙な感覚は、私が今まさに終わりのない読書の最中にあるということの証である。
<参考文献>
「読書の歴史〜あるいは読者の歴史〜」 アルベルト・マングェル 原田範行(訳) 柏書房 1999
「書物から読書へ」 ロジェ・シャルチエ 1992
「本という不思議」 長田弘 みすず書房 1999
OMBVVWYG • 30 September, 2012 • 21:16:22