「おじゃる丸」における永遠性の表現について - (講義「アニメーション」への提出レポート)
- Posted by: taichistereo • 31 July, 2007
(選択テーマ:感銘を受けたアニメーション作品)
幼い頃から14、5の歳になるまでテレビで放送されていたアニメーションを好んで見ていたせいもあって、広くアニメーションという表現について考えることは自らの少年時代について考えることとよく似ているように思われる。
子供が見たがるアニメとは「子供向けアニメ」であるはずだが、一度アニメから離れたある程度の年の人間がそれらのアニメを好む、というような場合も少なくないのではないだろうか。実際、子供向け作品の中には丹念に作られた楽しめる作品がいくつかある。
例えば「おじゃる丸」「カードキャプターさくら」(いずれもNHKエンタープライズ、現在放送中)「ポポロクロイス物語」(テレビ東京、放送終了)といったテレビ・アニメーションは、デビット・リンチが演出を手がけ我が国でも人気を博したテレビドラマ「ツイン・ピークス」のようなテレビの連続ものが生む独特のおもしろさ
を持っている。毎週放送というフォーマットにおいて一つの物語を直線的に各回に分配するのではなく、本来物語の進行に必要な情報をトリッキーに明かしていくことで、作品世界の永遠性を錯覚させるような効果を生んでいるのだ。あるいはこのような考え方は「サザエさん」や「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」などの長寿アニメ
番組においては至極当然のことであるかも知れない。しかし「おじゃる丸」の場合はかなり意識的にそのような効果を生むことに努めているし、「カードキャプターさくら」の場合は同時に確実なストーリー進行を感じさせるという点で興味深い作品である。
「おじゃる丸」は、平安時代から現代にタイムスリップしてきた貴族の子どもおじゃる丸が主人公のテレビ・アニメーション作品である。おじゃる丸は各回15分の放送枠の中で毎日、何をするともなく日常生活を過ごすのだが、作品の骨格は町と主人公の関係、町の住人たちと主人公の関係で成り立っている。おじゃる丸がやってきたのは、かつて彼ら貴族階級が暮らしていたところだったのだが、今では日本のごくありふれた住宅地になった土地。町には二つの時代を結びつけるものがいくつか残っている。それらはおじゃる丸ら登場人物にとっては断片的過ぎるためかあまり重要視されていなく、
町の姿を俯瞰する視聴者によってのみ徐々に形作られていく時代の掛け橋なのだ。
また、町に生活する様々なキャラクターたちは、変人とも呼べるほど強烈な個性の持ち主で、魅力的だ。主人公と彼らのふれあいは何か大きな物語に向かうでもなく、ただ無邪気に毎日繰り広げられるだけである。その非・生産的な作品態度こそが永遠性をもたらしているわけだ。ただし毎回の放送の積み重ねは本当に何も生産しないわけではない。永遠に続くかのような日常生活の繰り返しにおいて、時の流れ、土地の息遣いを表出させ、暖かな気持ちでキャラクターたちの振る舞いを眺められるような調和のとれた作品世界は、他の子ども向けテレビ・アニメーション作品と比べ、あまりにも特異なのである。
ところで、アニメーションという表現のユニークな点について十分に自覚的であることの重要さは、アニメーション表現を語る上であまり指摘されてきていないのではないだろうか。例えば、昨今のテレビなどにおいては、ある種アニメおたく的なコミュニティを形成することに奉仕するような作品が少なからず存在する。しかしそれらはアニメという限定された枠組み、あるいはそれを好む人のコミュニティ、市場に自らを閉じ込めるような表現でしかないのである。つまり、すべてのメディア表現、もしくは映像表現などのアニメ以外の表現には置き換え不可能な表現でなければ、そのような表現に向かおうとする意識を反映させていなければ、二次元の薄っぺらな作品でしかないということだ。
静止画の連続で動いているということ、二次元であること、それどころかスーパーフラットでさえあること、そのようなセル・アニメーションの性質に加え、テレビ放送というメディアの性格をも理解した上で生まれた「おじゃる丸」が、私は今面白くて仕方ない。
(2001年1月)
幼い頃から14、5の歳になるまでテレビで放送されていたアニメーションを好んで見ていたせいもあって、広くアニメーションという表現について考えることは自らの少年時代について考えることとよく似ているように思われる。
子供が見たがるアニメとは「子供向けアニメ」であるはずだが、一度アニメから離れたある程度の年の人間がそれらのアニメを好む、というような場合も少なくないのではないだろうか。実際、子供向け作品の中には丹念に作られた楽しめる作品がいくつかある。
例えば「おじゃる丸」「カードキャプターさくら」(いずれもNHKエンタープライズ、現在放送中)「ポポロクロイス物語」(テレビ東京、放送終了)といったテレビ・アニメーションは、デビット・リンチが演出を手がけ我が国でも人気を博したテレビドラマ「ツイン・ピークス」のようなテレビの連続ものが生む独特のおもしろさ
を持っている。毎週放送というフォーマットにおいて一つの物語を直線的に各回に分配するのではなく、本来物語の進行に必要な情報をトリッキーに明かしていくことで、作品世界の永遠性を錯覚させるような効果を生んでいるのだ。あるいはこのような考え方は「サザエさん」や「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」などの長寿アニメ
番組においては至極当然のことであるかも知れない。しかし「おじゃる丸」の場合はかなり意識的にそのような効果を生むことに努めているし、「カードキャプターさくら」の場合は同時に確実なストーリー進行を感じさせるという点で興味深い作品である。
「おじゃる丸」は、平安時代から現代にタイムスリップしてきた貴族の子どもおじゃる丸が主人公のテレビ・アニメーション作品である。おじゃる丸は各回15分の放送枠の中で毎日、何をするともなく日常生活を過ごすのだが、作品の骨格は町と主人公の関係、町の住人たちと主人公の関係で成り立っている。おじゃる丸がやってきたのは、かつて彼ら貴族階級が暮らしていたところだったのだが、今では日本のごくありふれた住宅地になった土地。町には二つの時代を結びつけるものがいくつか残っている。それらはおじゃる丸ら登場人物にとっては断片的過ぎるためかあまり重要視されていなく、
町の姿を俯瞰する視聴者によってのみ徐々に形作られていく時代の掛け橋なのだ。
また、町に生活する様々なキャラクターたちは、変人とも呼べるほど強烈な個性の持ち主で、魅力的だ。主人公と彼らのふれあいは何か大きな物語に向かうでもなく、ただ無邪気に毎日繰り広げられるだけである。その非・生産的な作品態度こそが永遠性をもたらしているわけだ。ただし毎回の放送の積み重ねは本当に何も生産しないわけではない。永遠に続くかのような日常生活の繰り返しにおいて、時の流れ、土地の息遣いを表出させ、暖かな気持ちでキャラクターたちの振る舞いを眺められるような調和のとれた作品世界は、他の子ども向けテレビ・アニメーション作品と比べ、あまりにも特異なのである。
ところで、アニメーションという表現のユニークな点について十分に自覚的であることの重要さは、アニメーション表現を語る上であまり指摘されてきていないのではないだろうか。例えば、昨今のテレビなどにおいては、ある種アニメおたく的なコミュニティを形成することに奉仕するような作品が少なからず存在する。しかしそれらはアニメという限定された枠組み、あるいはそれを好む人のコミュニティ、市場に自らを閉じ込めるような表現でしかないのである。つまり、すべてのメディア表現、もしくは映像表現などのアニメ以外の表現には置き換え不可能な表現でなければ、そのような表現に向かおうとする意識を反映させていなければ、二次元の薄っぺらな作品でしかないということだ。
静止画の連続で動いているということ、二次元であること、それどころかスーパーフラットでさえあること、そのようなセル・アニメーションの性質に加え、テレビ放送というメディアの性格をも理解した上で生まれた「おじゃる丸」が、私は今面白くて仕方ない。
(2001年1月)
baoUcJVZfuSw • 29 September, 2012 • 18:30:03