1.1.乗り物というメディア

1.メディアとしての乗り物
1.1.乗り物というメディア

一般に乗り物(vehicle)とは、人間や物資を運搬・輸送するものくらいに認識されているだろう。乗り物と言って皆が即座に思い浮かべられるものとしては、自動車や電車、飛行機、船、自転車あたりが妥当だろうか。だが例えば、ローラースケートやスキー、そりなどは乗り物と言えるのだろうか。また、エレベーターや動く歩道、それに馬などの動物について考えると、一体どこまでが乗り物でどこからがそう呼ぶべきでないのか、少しばかり面倒な話になってくる。このような混乱を避けるためもあってのことだろう、かつて川添登が乗り物について論考した際には、「移動空間」という表現を用いることで、変則的な空間論として乗り物を扱うことが出来た(川添『移動空間論』、1968)。だが今の私たちは、内部や外部と言った区分では立ち現れてくることのないような空間概念にも精通しているので、メリーゴーランドが本当に乗り物と言えるかどうか悩むよりも前に「テレビは乗り物だろうか」といったことに気が付いてしまう。

テレビや新聞といったメディアが情報を運ぶ乗り物のように機能するものだということは、我々の日常的な感覚にもよくなじむ。本来なら「いま・ここ」で一回きりしか確認できないはずの情報をいつどこででも経験できるようにするのがメディアの役割であるわけだが、移動・輸送の手段として離れた2点間の時間・距離を縮めるという乗り物の基本的な役割は、メディア全般に見られる特徴的な性格でもある。

M・マクルーハン的な汎メディア主義にのっとって言えば、人間の技術すべてが時間的・空間的に隔たったもの同志を結びつけるメディアとしての機能を持つ。乗り物は特に、速度というメディアの持つもっとも重大な能力を体現する機械技術であるから、私たちの移動というものはおのずと越境的な性格をおびることになる。上野俊哉は「速度都市の交通人にふさわしい」概念として<トランス・イグジステンス>(越存)なる造語を提示していたが(上野『思考するヴィークル』、1992)、この言葉自体は特別何かを意味するというものでもなくて、ただ、横断的なメディアの性格と移動する乗り物の関係を並置して見せる比喩のようなものでしかない。また何も実在論にひっかけなくとも、乗り物がメディアとして機能するものであることは、テレ・プレゼンス(遠隔現前)の技術がもたらす越境的な「いま・ここ」の感覚が充分に説明してくれる。

現代の私たちにとっては「いま」という特定の時間、「ここ」という特定の場所は他の時間・空間との包括的な関係と切り離すことの出来ない複数性を伴ってあらわれるもののように思われる。例えばインターネットというものはマクルーハンの言う<地球という村(グローバル・ヴィレッジ)>のイメージが最も愚直な形態でそのまま具現化されたかのようなテレ・コミュニケーション技術であるし、コンピュータの情報処理能力の向上とともに人工的な仮想現実の空間概念もいよいよ身近なものになってきた。また工学的な技術分野だけではなくて、すくなくとも至上原理主義的に考えれば、世界経済においては「見えざる手」の存在するような抽象的な経済市場が越境的に広がっているものだ[注1]。それというのも、貨幣というメディアが流通することで土地の固有性に根ざした文化的隔たりがひとまず解消されてしまっているからである。

数多くのメディア技術のおかげで、私たちはある地点にとどまっていながら他の地点との関係を結んでいられる。このとき、とどまることと移動することという相反するふたつの行為をある種のライフスタイルとして融解させているのは乗り物というメディアであるだろう。

乗り物がメディアとして機能するという考え方は、メディアそのものが移動を前提にしている技術だという事実に由来している。乗り物による物理的な輸送(transport)に対して、電気メディアの即時的な伝達(telecommunication)を瞬間移動(teleport)に例えてもよいだろう。メディアが乗り物である、というのは単なる比喩でなくて、より高精細度のテレ・プレゼンスを実現しようと発達してきた電気メディアと、より速くより遠くへと発達してきた乗り物とは区別して考えることの出来ない、速度技術という近代のひとつの発明なのである。「一世紀以上にわたる電気技術を経たあと、われわれはその中枢神経組織自体を地球規模で拡張してしまっ」た(M.マクルーハン『メディア論』1964、P.3)と表現されるような20世紀という時代において、文字通りその内爆発の一翼を担ったのは地球を周回して移動する飛行機や果てしなく延伸された舗装道路を突き進む自動車などの乗り物だった。電気の速度や光の速度で移動する乗り物、それが近代以降のメディアが果たす役割である。

このように、乗り物というメディアは人間の足を拡張する技術であるだけでなく、いまやメディア全般の足下を支えるものと言っても過言ではない。変容の過程について正確を期するなら、道具としての乗り物がメディアそのものへと変容する間には、娯楽としての乗り物の側面が発見されていることも忘れてはならない。鉄道と自動車によってその役割を失った乗り物としての馬(騎馬、馬車)は、乗馬という娯楽の形でかろうじて生き残っている。あるいは、乗り物に乗ること自体が娯楽として成り立つような快楽性を持っているという点も見逃せない。自動車によるドライブやレース、鉄道旅行の車窓から眺めるパノラマ風景、飛行機や船からの遊覧など、輸送(transport)の手段である乗り物は、遊びやスポーツ(sport)にも近くなってくる。


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Comments

横田 さん (08/19 07:32:35):
ブログという乗り物に
便乗しつつ
記事はともかく
右側に出て来る案内に
感心です・・・アフリエイトに繋がるのかな

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About

「移動と定住」 は、taichistereo(入江太一) によって 2001年に執筆された 卒業論文です(学科賞 受賞)。

大学卒業後は ハードディスクの片隅にひっそりと眠っているだけでしたが、2007年に Nucleus CMS を用いて 改めてコンテンツとして蘇生させることにしました。

■ 当時の学籍 ■
東京工芸大学 芸術学部 映像学科 メディア計画研究室

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